『ロッキー2』監督・脚本:シルヴェスター・スタローン 評者:三浦哲哉【気まぐれ映画館】
「1」からおさらいしよう。『ロッキー』(1976)は、場末のしがないボクサーが愛する仲間を得て人生を前向きに歩み始め、ついに世界チャンピオンのアポロ・クリードと15ラウンドを戦い抜くに至るまでを描く。ほとんど無名だった脚本・主演のスタローン自身が世界的名声を勝ち取るプロセスとも重なる、メモリアルな作品だ。
「2」は、ロッキーがアポロと再戦する物語。興行成績は前作ほどではないにせよ良好。とはいえ、作品の出来栄えとしては「1」に遠く及ばない凡作、と言われることがほとんどだ。対戦相手は同じアポロで目新しさがない。エイドリアンと愛を育む場面も「1」の繰り返しに思える。トレーニング場面もほぼ同様。テーマ曲は同一。露骨な二番煎じと言われても無理はない。しかし、ここまで同じだと、なぜこんなにも執拗に繰り返さなければならなかったのか、という問いが浮かんでくる。なぜだろう。
「2」が「継続」それ自体を主題とする作品だからにほかならない。それも「リハビリの継続」である。こう考えると見え方が変わる。
ロッキーの人生は、挫折しては立ち直り、傷ついては回復し、というリハビリの繰り返しである。終わりなきリハビリの過程として人生があることを、「1」から「2」へ、「2」から「3」へ……という継続によって体現する。このフォーマットを本当の意味で開始させた点に「2」の重要性はあった。
スピンオフ・シリーズ「クリード」(2015~)までを通して見ることができる現時点において、この点はより明瞭だ。ロッキーは、晴れやかなヒーロー然としているように見えて、その実、傷と病、精神的な沈鬱と孤独をつねに抱える。あたかもシジフォスの神話のように、壊れては治し、治しては壊れ、を繰り返してきた。
「2」の白眉は、ものすごい数の子どもたちを引き連れてロッキーがランニングをする場面だろう。街のみんなのリアルな声援を受けて回復は進む。
リハビリには、ほとんどファンタジーとしか言いようのない側面もある。「2」で問題となるのは右目の損傷だ。再起は無理だということを悟らせるため、老トレーナーのミッキーが、右目の死角から痛烈なびんたをロッキーに食らわせる(ここもいい場面だ)。ところが映画の終盤になると、この右目問題はあっさり解消している。あたかも筋トレで治ったかのように! 右目をかばうため、サウスポーからオーソドックス(右構え)に変えていたはずが、アポロ戦の最終ラウンドではミッキーが「サウスポーに戻して奴を驚かせてやれ!」と叫ぶ。右目の死角からびんたを食らわせたあんたが言うか?
まあ、こういう奇跡も大目に見ようではないか。いずれにせよロッキーには、再びすべてを失い、過酷なリハビリを一から繰り返す運命が待っているのだから。
(『中央公論』2023年6月号より)
【評者】
◆三浦哲哉
青山学院大学教授