追悼:三宅一生|数々の建築家やデザイナーと協業。生涯現役を貫き、デザイン文化の貢献に寄与。
世界的に活躍したデザイナー、三宅一生が亡くなった。
三宅は広島県で生まれ、高校への通学路にあった丹下健三による〈広島平和記念公園〉、イサム・ノグチによる〈平和大橋〉に感銘を受けてデザインを志す。多摩美術大学図案科に入学し、在学中から装苑賞に入賞。また同じく在学中にアートディレクターの村越襄からオファーを受け、東洋レーヨン(現・東レ)のカレンダー用衣装を制作する。
卒業後に渡仏しオートクチュールの技術やデザインを学び、続いてニューヨークで既製服を学んだ。帰国後の1970年に三宅デザイン事務所を設立。翌年に〈イッセイ ミヤケ〉を始め、1973年にはパリ・コレクションに初参加する。三宅の衣服は、人類における衣服の原点「一枚の布」を根幹とするもので国内外に大きな影響を与えていった。
三宅は早くより産地や企業との協働に目を向け、一本の糸から研究開発を行うことで独自の素材や技術によるものづくりを行った。その姿勢はファッションを超え、国内外のさまざまなジャンルのクリエイターを刺激するものであった。
一方で、イサム・ノグチ、倉俣史朗、安藤忠雄らと深い交流を結び、数々の名作デザイン誕生に関与した。2007年に立ち上げた〈Reality Lab.(リアリティラボ)〉では、紙より高い光透過性を持つペットボトルの再生素材で照明シリーズ〈陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE〉も発表している。
2003年には朝日新聞にデザイン美術館の設立を呼びかけるエッセイを寄稿し、その動きが東京・六本木の〈21_21 DESIGN SIGHT〉の設立へとつながる。三宅はその後も国立のデザインミュージアム設立を目指して運動を続けた。その仕事は常に革新を追求するものであり、1993年に発表した「プリーツ・プリーズ」をはじめ、「A-POC」などの衣服で服飾史に新たな歴史を刻んだ。
三宅の哲学、デザインへの姿勢、そして情熱は、多くの後進に有形無形の影響を与えた。あらためて世界的なデザインの偉人の逝去に哀悼の意を表したい。
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