ふるさとを歌って守る 浪江町出身の歌人・三原由起子さん
◇自分を知る人がいる場所
<わが店に売られしおもちゃのショベルカー大きくなりてわが店壊す>
実家は浪江町の新町商店街にあります。そこは福島第1原発から約8キロ。幼い頃、お使いに行くと、ご近所さんから「三原のゆきちゃん」と可愛がってもらいました。隣には曽祖父母の代から続いていた店「乗り物センター三原」があり、2階には私の部屋もありましたが、20年5月に取り壊されました。
<プラモデル山積みに売るわが店に目をきらきらと入りくる子ら>
<「おもちゃ屋の娘でした」と言うわれに戸惑っているもう一人のわれ>
町は原発事故で全町民が避難を強いられました。店があった周辺は17年3月に避難指示が解除された後、家や店舗の解体が進みました。通っていた町立浪江小も21年中に更地になりました。東京都内に住んでいる私にとって、古里はもう、自分が存在していた町とは思えなくなりました。慣れちゃいけない寂しさに慣れてしまいました。
文学と出合ったのは、不登校を経験した中学生の頃です。「詩を書いてみないか」と国語の先生に勧められ、福島県文学賞詩部門青少年奨励賞を受賞し、自信が付きました。短歌を始めたのは、高校生の時に俵万智さんの歌集「サラダ記念日」を読んでから。五七五七七のリズムに乗せて、恋愛感情を率直に歌えることに魅力を感じました。
一方で、都会に憧れ歌手を志して上京したものの、思うようにはいきませんでした。思春期の頃、周囲の目が煩わしくて浪江を出たはずなのに、自分を知る人がいる故郷があることにほっとしました。
<ふるさとを凱旋(がいせん)するよう 夕方の商店街を二人歩みぬ>
25歳で結婚しました。帰省時には、祭りで実家の出店を夫と手伝いました。私は地元で三五八(さごはち)漬けのPRソングも歌い、古里への愛着が増していきました。震災と原発事故が起きたのは、ちょうどその頃です。
<iPad片手に震度を探る人の肩越しに見るふるさとは 赤>
あの日、都内の勤務先で浪江の震度が気になり、同僚のiPadをのぞき見しました。「震度6強」と赤く表示された画面に衝撃を受け、この瞬間を短歌に閉じ込めたい、記録したいと思いました。
原発事故で、浪江の両親と祖母は県外へ避難しました。私は脱原発のデモに参加し、原発関係で働く同級生とは話が合わなくなりました。
学校で原子力にまつわる作文や習字、ポスターの課題が出たことを思い出しました。小学校を退職後、原発PR施設に勤めていた恩師に裏切られたような気分になり、冷たい態度をとりました。何で、もうちょっと寛容になれなかったのかなと、今でも思います。傷つけあう言葉に疲れていきました。
<「仕方ない」という口癖が日常になり日常をなくしてしまった>
<二年経て浪江の街を散歩するGoogleストリートビューを駆使して>
短歌は、原発事故後の日常の中で、蓄積した違和感を昇華させるためのものになりました。強くなったのは、自分にうそをつきたくないという意識です。原発事故がなかったかのように現実を美化する空気がないか。今の復興のあり方にそう感じるからこそ、歌を詠んでいます。
「ふるさとは赤」の初版を出して9年が過ぎようとしています。後書きを記した13年4月、浪江町は空間放射線量に応じ3区域に再編されました。住民の間にも帰還を巡る違いが生じました。立場や選択が異なるからこそ、歌の作りにくさは増しています。率直な表現を避け、これまで使いたくなかった比喩や皮肉を取り入れるべきか考えることもあります。でも、弱音を吐きたくなる時、歌が自分を奮い立たせてくれます。
<ふるさとを失いつつあるわれが今歌わなければ誰が歌うのか>
今夏には、続編として第2歌集を発表する予定です。短歌は戒めであり、自分を支える心の「つえ」でもあります。かつての町が消えていく今、町に通い、歴史を学び、変化を記録しています。ここで自分は形作られた、そのアイデンティティーを歌で守りたいのです。【聞き手・構成、寺町六花】
◇みはら・ゆきこ
1979年生まれ。2001年第44回短歌研究新人賞候補。13年第24回歌壇賞候補。同年に歌集「ふるさとは赤」を出版し、21年に加筆した新装版を出した。夫の玉城入野さんと設立した出版社「いりの舎(しゃ)」では、反原発を訴え続けた福島県大熊町の歌人、佐藤祐禎さんの歌集などを刊行。月刊「うた新聞」では毎年、東日本大震災の特集を組む。東京都在住。
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東日本大震災からまもなく11年。あの未曽有の災害は自らの作品づくりにどう影響したのか。震災を自らの作品でどう伝えようとしたのか。芸術に携わる人々に聞いた。