武田徹 立花隆が一生をかけて語ろうとしたこと。ジャーナリズムと宗教のあわいで
生前の立花隆と会ったことは二回しかない。そう書くと意外に感じる人もいるかもしれない。
おまえは先端科学技術関係の紹介ものやジャーナリズム論など、立花と執筆領域が近かったではないか。だから、直接、教えを請うたこともあったのではないか。少なくとも会う機会は様々にあったのではないか、そう思う人もいるだろうか。
現実はそうではなかった。立花に会えそうな場所、たとえば先端科学技術関係の記者発表会見や新聞社や出版社が主催する各種のイベントに出掛けることが少なかったのは、もっぱら筆者生来の出不精のせいだったが、立花に会いたくないと思う気持ちが正直あった。
なぜ、遠ざけていたのか。それはまず処世術的な理由だった。物書きの一人として、立花の後に道は残らないと感じていた。とても人気のある書き手なので、立花が選んだテーマには注目が集まる。そのテーマを追求してゆくプロセスで、立花は活字媒体だけでなく、テレビなど放送メディアまで総動員して取材を展開するので、そのテーマは「立花さんがやっていましたね」と言われるものになる。二番煎じ呼ばわりを避けるには、立花の後は追わないほうが得策だと思った。
もうひとつ、立花の後を追いたくないとも考えた理由はスタイルの問題である。スタイルといっても姿格好の話ではなく、文体のことだ。
立花の書く文章は平易だ。事実の列記が文章の多くを占め、彼自身が言いたかったことも明解に伝わってくる。誤解されることの少ない文章であり、事実を伝えることがジャーナリズムの使命だと考えれば、理想に近いものだとさえ評価できる。だが、筆者はそこに不足があるように感じてきた。
ジャーナリストとはいえ、言葉で表現する以上、言葉で作品を作っている。事実と意見を伝えるジャーナリズムの作品であっても、言葉の作品としてオリジナルな個性が伴うべきではないかと筆者は考えた。その点、立花は間違いなく不世出のジャーナリストだが、言葉を道具として使う表現者であって、言葉そのもので表現する表現者ではないと筆者は思った。だから彼の作品を読んで、そこに描かれている世界は伝わってくるが、彼の言葉自体が意識に残ることはない。自分は、そうではなく、言語表現としても自立して成立する作品を目指したいと思った。