ファインダー越しにとらえ続けたヒューマニティ。「田沼武能 人間讃歌」で振り返るひとりの報道写真家の軌跡
学芸員)。
田沼は1929年に東京・東浅草の「田沼写真館」で出生。46年に入学した東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)では報道写真家を志し、その後入社したサン出版社で写真家・
木村伊兵衛
に師事することとなる。『芸術新潮』の嘱託写真家として芸術家や文化人を撮影し、65年にはアメリカのタイム・ライフ社で『LIFE』の契約写真家となるなど、フォトジャーナリズムの世界で華々しい活躍を展開してきた。72年からはフリーランスとして青年海外協力隊に同行し、国際協力を取材。生涯で130を超える国と地域に足を運んだ経歴を持つ。84年にタレント・黒柳徹子がユニセフ親善大使となると、その初親善訪問としてタンザニアへ同行。以来2019年までの35年間、すべて私費で黒柳に同行し、取材を継続してきたという。
これらの精力的な取材活動に加え、田沼は「日本写真保存センター」の設立にも尽力。日本での写真における著作権保護や写真・フィルムの保存など、国内における写真文化の啓蒙普及に心血を注いだ人物だ。このような多くの功績から、2019年には日本人写真家として初めて文化勲章も受賞した。
本展では、「戦後の子どもたち」「人間万歳」「ふるさと武蔵野」の全3章で会場が構成されており、約200点の写真作品を展示。人間のドラマをとらえ続けてきた田沼の70年を超える写真家としての軌跡をたどるものとなる。「第1章 戦後の子どもたち」では、自身も思春期を戦時下で過ごし、東京大空襲で凄惨な経験をした田沼が、終戦後の東京下町に住む子供たちの姿を写した写真群が63点展示されている。
『田沼武能写真集 戦後の子どもたち』(新潮社、1995)の「私の子ども写真の原点」によると、田沼は「子供の写真を撮影することで自身の心のなかにある子供時代の心象風景を追っていたのではないか」と自己分析している。
「子どもは、歴史の鏡であり、時代の鏡でもあると思う」。そう田沼が綴るように、これらは昭和、戦後日本のリアルをいまに伝える大切な記録となっている。会場ではこの下町の様子を懐かしむ声や、いまとは異なる街の雰囲気に驚く声も聞き取れた。
「第2章 人間万歳」では、130ヶ国を旅し、多くの「無名の人々の生き様」にカメラを向けてきた田沼の写真の数々が展示されている。その写真は日常のなかで陽気な笑顔を浮かべる者から、戦争による悲劇に直面している者まで様々だ。本展でも大部分を占めるこの写真群からは、自身とは異なる環境で暮らす多くの国の人々に思いを馳せるとともに、知らない土地の文化や暮らしを垣間見ることができる非常に興味深い内容となっている。
今回の見どころとなっているのが、美術館では初公開となる最新作「武蔵野」シリーズだ。「第3章 ふるさと武蔵野」では、東浅草という都会に生まれ、いわゆる「ふるさと」に憧れたという田沼がその原風景を武蔵野に見出し、撮影したものを展示している。同シリーズのきっかけとなったのが練馬区石神井公園で撮影された《小雨降る三宝寺池》(2006)だという。
写真には、高度経済成長の最中に失われていくその土地の自然や文化、人々の関係を追うようにとらえたものもある。かつて風景写真=京都を代表する観光地というほどの価値観の時代があったなかで、田沼は明光風靡な景勝地ではなく、ごくありふれた風景を撮影。そこに息づく人々の暮らしに目を向けていたことがうかがえる。
この回顧展の開催に際し、田沼の次男である田沼利規(田沼武能写真事務所
代表)は次のように語った。「父である田沼武能は昨年の6月1日、写真の日に亡くなった。今回美術館で初公開となる『武蔵野』シリーズは、世界中を飛び回り撮影をしてきた父が、同時に自分自身の存在と向きあうために撮影したものであったのではないか。それは『人間と向きあう』という父のライフワークが色濃く反映されたシリーズとも言える。これからは父の写真の著作権を相続していくとともに、兄と事務所も運営していく。父がファインダーをのぞいて見ていた世界を、自身も引き継いでいきたい」。
本展に関する解説を受けるなかで、とくに印象的だったのは「過去は撮影することができない」という田沼の言葉だ。いま世界では何が起きていて、そこにはどのような人がどんなふうに生きているのか。忙しない日常においてつねに「いま」に目を向け、頭と心でとらえていくこと。その重要性にあらためて気づくきっかけをこの展覧会は鑑賞者に与えてくれるだろう。