熊本藩のスパイは見た…「薩摩藩主は猪狩りばかり」「年貢取り切れなければ容赦」
報告書は1651年、熊本藩の目付(密偵)が見聞きした情勢を18か条にわたって記したもの。同大永青文庫研究センターの後藤典子特別研究員が昨年、同大が所蔵する熊本藩筆頭家老の「松井家文書」約3万6000点の中から見つけた。
藩の税制や、洪水で被災した鹿児島城の復旧工事の状況、実効支配する琉球・八重山の状況など、幅広く情報収集していたことが伝わる内容。農民が虫害で年貢を納めるのに困っており、「未納分は厳しく取るが、取り切れなければ容赦するとのこと」と状況を報告。また、異国船への警備について「5人、または3人ずつ番人が置かれている」と言及している。
薩摩藩主・島津光久に関しても、参勤交代に出発する予定日や規模など詳細を調べる一方、光久が娯楽で「猪狩りばかりなさっている」とも報告。一方、薩摩側から見た熊本藩主・細川家には、「借銀(借金)は決してないだろう」との評判を記してあった。
鎖国下でも琉球や中国と交易していた薩摩藩に、幕府は「外国と結託する恐れがある」と警戒。細川家に薩摩の監視を期待していたという。熊本藩が密偵を送り込んだ背景には、こうした事情があったとみられる。
この日の記者会見で、稲葉継陽センター長は「薩摩の抑えとして、熊本藩が重要な役割を担っていたことがわかった」と指摘。同席した鹿児島大の原口泉・名誉教授も、「薩摩藩の仕組みが具体的にわかる質、量ともに第一級の史料だ」と述べた。