「森鴎外と小倉」刊行 唯一の地方勤務は“異世界”との出会い
◇軍医として北九州赴任、3年勤務
鷗外が小倉町(現在の北九州市小倉北区)に陸軍第十二師団軍医部長として着任したのは、明治32(1899)年6月、離任は明治35(1902)年3月。120年を経た現在も、北九州市では、鷗外の着任日、離任日に、記念会が「しのぶ会」として講演会を開くほか、毎月(1月と8月除く)1回、公開講座「森鷗外を語る会」を開催し、同会理事らが自身の研究成果を発表している。そのほか、語注・人物索引付きの『小倉日記』や論考集『森鷗外と北九州』などを刊行。観光客向けのパンフレット「森鷗外と北九州・小倉」も制作するなど、顕彰活動が続いている。
「鷗外は小倉に文化の種をまいた」と同会の柏木修会長。鷗外の離任時に開かれた送別会席上での鷗外の助言を元に、小倉に廿一(にじゅういち)会が発足。月に一度、有識者らが集まって語り合う文化サロン的な存在で、それは後の「小倉郷土会」に引き継がれ、そこから記念会も生まれた。
◇地元紙へ多数寄稿 交流は小説題材に
小倉時代の鷗外は、小説こそ発表しなかったが、公務の合間を縫って、地元紙の「門司新報」や「福岡日日新聞」(現在の西日本新聞)などに精力的に評論や随筆を寄稿。炭鉱主らに文化に私財を投じることを促す「我をして九州の富人たらしめば」などが掲載され、影響を与えた。さらに、一般市民向けの心理学講座なども開催、アンデルセンの『即興詩人』や、軍事学者・クラウゼビッツの『戦論』の翻訳も手掛けた。さらに、公務で九州各地を視察した際には、時間を見つけては史跡なども訪れ、それが後年の『阿部一族』などの歴史小説に結実したとされる。小倉での交流や探訪は、鷗外自身の内にも種を植え付けたといえる。北九州市立文学館の今川英子館長は「鷗外の人間改革の時期だった」と語る。
小倉時代に材を取って書かれた小倉三部作(「鶏」「独身」「二人の友」)の一つ、「鶏」で描かれるように小倉では、鶏の卵をごまかして自分の物にする厩務(きゅうむ)員や、家の物を盗むお手伝いなど、したたかな庶民の姿を目の当たりにする。「庶民の生の姿に触れる初めての経験だったのでは」と柏木会長。エリート街道を歩んできた鷗外にとっては初めてで、ほぼ唯一の地方勤務だった小倉時代は、“異世界”との出会いの時だったといえる。
このほか小倉では、地元のベルトラン神父からフランス語を学び、短編「二人の友」に登場する「安国寺さん」のモデル、小倉・安国寺の僧、玉水俊虠(しゅんこ)とは、互いに唯識論とドイツ哲学を交換授業し、親交を深めた。俊虠との出会いは、「左遷」を憂えていた鷗外の自省を促し、その後の活発な活動に影響を与えたとされる。
◇『小倉日記』の謎に迫る
記念誌『森鷗外と小倉』は、こうした小倉在勤中の鷗外の文化活動▽市民や有識者らとの交流▽『小倉日記』や小倉三部作――などに関する論考を収録したほか、廿一会や小倉郷土会、鷗外文学碑の建立、鷗外旧居の保存などの顕彰活動の歴史をたどる内容となっている。収録された24編の論考は、記念会が年2回発行する会報や同会発行書籍などの中からテーマに合うものを選んだ。さらに、山崎一穎(かずひで)・森鷗外記念館(島根県津和野町)館長、今川・北九州市立文学館長らの特別寄稿も掲載している。市内の図書館や学校に寄贈したほか、希望者には実費2000円で頒布する。
小倉時代の鷗外を知る貴重な資料の一つが『小倉日記』だが、長らく紛失しており、戦後になって、遺族が疎開先から持ち帰った荷物の中から発見され、1952年刊行の鷗外全集に収録された。北九州ゆかりの作家、松本清張は、小倉で最初に鷗外研究に取り組んだ田上耕作をモデルにした「或(あ)る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞したが、鷗外の『小倉日記』の“謎”を題材にした『鷗外の婢(ひ)』や「削除の復元」も書いている。記念会理事の養父克彦さんは「『小倉日記』は読めば読むほど、興味深い」と話し、さまざまな謎がある、と言う。例えば、鷗外は10歳で上京して以降、一度も故郷・津和野町には帰郷しなかったとされているが、日記や戦後の新聞記事などを根拠に、実際は小倉時代に「おしのびで帰郷しているのではないか」と推測する。
いくつもの顔を持つ鷗外の話題は、令和の今も人々を魅了してやまない。