【歌舞伎俳優 市川猿之助インタビュー】常に“今”を全力で駆ける情熱のありかとは
2020年、新型コロナウイルスのパンデミックにより歌舞伎座は3月から7月まで休館を余儀なくされた。公演再開後の歌舞伎座で宙乗りが行われたのは、実はこれが初めてのことだった。8月の再開時は感染予防対策のため、客席収容率は50%以下、出演者もスタッフも完全に入れ替えての四部制公演。花道での演技は制限つき、少人数で距離をとるなど演出でもさまざまな変更を強いられていた。時間をかけ少しずつ緩和されてきた中で、宙乗りはようやくたどり着いた大きな一歩だった。宙をゆく猿之助を、万感の思いで見つめていたのは観客だけではなかった。通常の演出ではそのラストシーンにいないはずの登場人物たちが、舞台から猿之助を見送っていたのである。そしてその様子を目にした観客がさらに感動するという現象が起きていた。
「コロナ禍だからこその演出です。ああすることでご覧になる方はいろいろと思いを馳せるでしょうから」
猿之助がこの役を演じたのは5年半ぶり。実はそこに、もうひとつ大きな意味合いがあった。2017年10月、猿之助は『スーパー歌舞伎2 ワンピース』出演中に舞台の昇降装置に衣裳を巻き込まれ、左腕開放骨折という大怪我を負った。伯父である三代目猿之助(現・猿翁/えんおう)から受け継いだ猿之助の芸には、宙乗りや早替わり、時に体操選手さながらの身体能力が必要とされるアクロバティックな演技が含まれている。『義経千本桜 川連法眼館の場』はその最たるものだ。怪我から復帰できたにせよ、この演目で軽やかに主役を演じる猿之助を目にすることは二度とないかもしれない、多くの人がそう覚悟したほどの事態だった。しかし今年初春の歌舞伎座の舞台に、猿之助は事故以前と変わらぬ姿で現れ、その演技はより一層深みを増していた。
「決して元どおりではありません。左手は以前と同じようには動かないので、できないこともあります。ただ失ったものがある一方で今だからできることもある。それをいかに見いだすかです」
自分の置かれている状況を冷静に見極め、そのときだからできることに最善を尽くす。それは代々の猿之助が一貫して取り組んできたことでもある。そもそも江戸時代にルーツのある“宙乗り”を1968年に復活させたのは三代目猿之助を名乗っていた猿翁である。西欧文化の影響を受けた明治以降、高尚な芸術性や文学的ドラマ性を重視する傾向が強くなっていった中、視覚、聴覚にダイレクトに訴える古来の歌舞伎の特色を意識的に取り入れてのことだった。やがて猿翁は、現代人の感性に響く物語にスピーディな展開とスペクタクルな演出を融合させ、歌舞伎の新たなスタイルである「スーパー歌舞伎」を創始。そしてそれをさらに発展させたのが、猿之助が手がける「スーパー歌舞伎2」だ。
明治生まれの二代目猿之助(猿之助の曽祖父)は、1919年に西欧の演劇を学ぶためにアメリカ、イギリス、フランスなどを巡り、ロンドンで出会ったバレエ・リュス(ロシア出身のセルゲイ・ディアギレフが創設したバレエ団)に刺激されてレッスンまで見学に行き、帰国後に「ロシア・バレエに見られる力強さ」を意識した新作舞踊を発表している。それらの作品には垂直方向に上下する振りや激しい跳躍などが含まれていた。従来の日本舞踊にはなかった発想で、それをよしとせず揶揄(やゆ)する保守的な意見もあった。それらが今では名作と呼ばれるようになり、作品は猿翁を経て猿之助へと受け継がれ、進化する舞台機構に合わせて演出は洗練されてきた。