美術教師・末永幸歩さんに聞く! 【展覧会 岡本太郎】鑑賞のヒント
私がかねてより尊敬している芸術家の一人が岡本太郎さんです。私が美大生だったころから、彼の考え方に、大きな影響を受けてきました。
今回、その岡本太郎の大型回顧展である「展覧会 岡本太郎」についての執筆のご依頼をいただき、期待感をもって東京都美術館へ足を運びました。
しかし展示室に入るや否や、少し戸惑ってしまいました。入り口から見渡す広い展示室の四方八方に絵画や彫刻の大作が点在しており、どこから見始めていいものか迷ってしまったのです。
ひとまず展示室を歩き回ってみましたが、「あれもこれも見なければ」と落ち着くことができませんし、どの作品も全体の色合いや雰囲気が似ているように感じられ、特定の作品がとくに気になるわけでもありません。
しばらく迷った後、ようやく1枚の絵画の前に腰を据え、「どんな色か」「何が描かれているか」「どんな筆致で描かれているか」などについて、見ていくことにしました。
しかし、すぐにまた別の迷いが生じました。何やらわからないけれど強烈な熱を持ったような作品を、冷静にまじまじと見ようとしている自分に違和感を感じ、次の疑問が浮かんできました。
鑑賞とは、目を凝らして対象を見ることなのか……?
この疑問について考えるにあたって、まずは岡本太郎自身の芸術に対する考え方に触れたいと思います。
「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という岡本太郎の言葉どおり、彼の作品は「上手いかどうか」「綺麗かどうか」などの尺度では測りかねる作品ばかり。
しかし、作品以上に掴みどころがないのが、岡本太郎の職業。
岡本太郎というと「画家」というイメージがありますが、じつは生前、絵画作品をほとんど売ったことがないそうです。生前に発表されたのは、大阪万博のシンボルである『太陽の塔』をはじめとする、公共の場に設置される作品ばかり。これでは「画家」といっていいものか難しいところです。
一方で、著作物は膨大です。独自の芸術論を繰り広げた大ベストセラー『今日の芸術』、パリで学んだ民俗学の視座から日本文化について論じた『日本の伝統』をはじめとする、数え切れないほどの著作を残しており、「著述家」や「研究者」としての顔を覗かせます。
しかし彼の活動はそれだけではありません。一風変わった言動で、テレビのバラエティー番組に引っ張りだこ。テレビCMに出演したり「芸術は爆発だ!」という言葉が流行語になったりと、「タレント」といえるような活動をしています。テレビの中で奇妙なポーズをとる岡本太郎を見ていると、「単に目立ちたがりなのか?」とも思えてきます。
しかし一貫性のないように見える岡本太郎の仕事は、じつは彼の確固とした芸術への考えに基づいています。岡本太郎は芸術について自身の考えをはっきりと述べています。
「ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい」
岡本太郎は、芸術を「人間として生きること」だと捉え、芸術を「作品をつくる芸術家」や、「学芸員・評論家」「コレクター」だけにとってのものではなく、すべての人にとってのものにしようとしていたのではないでしょうか。
公共空間に設置される作品の制作、数多くの著作、マスメディアへの出演といったとりとめのない活動も、芸術という生き方を大衆に訴えかけるための、一貫した行動であったように考えられるのです。
なによりも、岡本太郎自体が、生涯、「人間として強烈に」生きようとしています。
代表作『太陽の塔』は、「人類の進歩と調和」を謳った1970年の大阪万博のシンボルとしてプロデュースを任された大仕事でした。しかし彼は万博のテーマに強烈な「ノー」を突きつけるような、非合理で不調和な作品をつくってしまいます。
「好かれないことを前提にして発言し、行動し、作品をつくる」と言い切る彼は、「私はこう感じる」という自分自身の思いに妥協せず、つねに自分という人間に誠実であろうとしていたように感じられるのです。
「いったいなにが本職なのか?」と聞かれた岡本太郎は、「人間ーー全存在として猛烈に生きる人間だ」と答えたといいます。