川内倫子の日々 vol.20「正しさの基準」
10月からの個展準備が佳境を迎えている。写真作品に加え、映像作品、布やアクリルキューブ、ライトボックスを使うインスタレーションなどを予定しているので、毎日なにかしらの確認作業や、映像編集をしている。
今回は映像作品を4つ展示予定で、コラボレーションの映像作品を入れると全部で9つある。そのうち新作がひとつと新作と旧作を合わせたものがひとつ。
すべての映像を見直してみると、かつて制作していた際には気づかなかった粗が見えてきて、気になる箇所を修正したくなってくる。
とくに新作と旧作を合わせた作品「Illuminance」は、展示するたびに新しい映像を追加していく、永遠に未完の作品なので、一番古い映像だと2005年くらいに撮影したものが含まれているから、時間が経って見直すと色味とか編集の仕方とかが雑に見えて気になる。
覚悟を決めてすべて洗い直すことにしたが、作業がやってもやっても終わらない。色味をあまり触りすぎると逆に味のようなものがなくなってしまうような箇所もあり、どこまで手を入れるのがいいのか少し悩み、間を置いて翌日見てまた触ったり、など。
その作業と並行して11月にオーストラリアで展示予定のプリント作業も進めているのだが、こちらも20年くらいまえに撮影した写真なので、色味調整に迷う。
なにが正解かというのはなくて、今の自分の感覚をできるだけ信じるしかないなと思いつつ手を動かしている。
パリ在住の友人と久しぶりに今夏再会し、数日一緒に過ごした。彼女の息子さんと自分の娘は2歳差で、過去に何度も会っているのだが、お互いに一緒に遊んで楽しいと感じる年齢になったようで、かつてないほどに楽しそうに遊んでいた。
ところがあるとき、娘が約束したことを守らなかったらしく、喧嘩になった。お互いの言い分を聞いてみると、確かに約束を破った娘に非があるのだが、2歳年上のおにいちゃんに甘えたかったところもあるようで、譲らない。友人が息子さんに「おにいちゃんだから譲ってあげたら?」となだめるも、「だって自分が正しいんだよ、間違ってないんだよ」と折れずにしばらくそれぞれが主張を続けた。友人も「正しいからってずっとこのままでいいの?ずっと楽しくないまま時間が過ぎちゃうよ」と言い聞かせてくれたりした。
しばらくはお互いに目を合わさなかったけれど、昼食の時間になって少し時間が経ったこともあり、おにいちゃんが自分の気持ちを飲み込んでくれたところもあったようで、またなにもなかったかのように仲良く遊び出した。
その様子を見ながらふと、「正しいことを通すことが良いわけではないからなあ」となにかの折に母が言ったことを思い出した。内容ははっきりと覚えていないが、人間関係の話をしていたとき、母がつぶやいた言葉だった。
過去に自分の正義を主張して、結果後味の悪い別れ方をした人たちが何人かいるが、別れを後悔することはなくても、もう少し違う対応があったのかなと思うことはある。自分が正しいのに、と思うこと自体もつらかったし、当然だけれど先方の思いもあるから平行線なのに。
映像の編集中、いま見ると昔撮影した景色が技術的に足りてなかったり、歪に見えたりしたが、その当時はそれを良しとしていたわけで、同じ自分が見た景色とは思えない。
その歪さを残したままにするのもいいが、全体のムードをいまの自分にアップデートしたい気もする。そのさじ加減に気を配りながらいまの自分が移ろっていくさまが残せたら、と思いつつ、少しずつ調整していくと、かつて見た景色が時間を超えていまに繋がっていくような実感もあり、それは過去の自分を受け入れる作業のようでもある。
許せなかった出来事も、いま思えば正しいから良いわけではないのかも、と思う。
怒りに任せてとった行動は、少し引いて時間を置けばまた違った角度から見えるものがあるのだと、いまは思えるようになったから。