《松浦寿輝×星野太》「多文化共生」は美辞麗句にすぎないのか? 「わたしたち」を問い直すパラサイトたちの肖像
変容するパラサイトのテーマを追求した評論集『食客論』(星野太著)と血なまぐさい戦争のただ中の友情を描いた『香港陥落』(松浦寿輝著)。
刊行を記念してお二人に対談していただきました。
群像4月号掲載の対談の一部を再編集した上で前篇・後篇にわけて公開します。
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松浦 星野さんのご新著『食客論』を楽しく読ませていただきました。この優雅な本は、一種の人物列伝だけど、自由な連想の働きで書き継がれていったからなのか、意外な取り合わせの人名が並んでいて、それを貫く中心テーマが「食客」なんですね。
「崇高」概念をめぐる大著『崇高の修辞学』では、堅実な人文科学の研究者として振る舞っておられた星野さんが、ここでは肩の力を抜いた緩やかな心身のたたずまいを見せていらっしゃる。こうした自由なエッセイでもめざましい才能を発揮されたことをうれしく思いました。
星野 ありがとうございます。
松浦 「食客」というモチーフにはいろんな背景があると思うので、後でゆっくりお伺いしたいと思うんですけども、僕は最初は、「食客」というのは会食者(convive)のことかと思ったんです。
convivialitéの概念、「共に食卓を囲むこと」をめぐる哲学的考察なのかと思ったんだけれども、実は意外にも、もっとずっと不穏な主題─むしろ寄生とかパラサイトという概念をめぐる論考だった。
この本の魅力は、ロラン・バルトの「いかにして共に生きるか」という講義から始めて、人から人へ、主題から主題へと移っていく流れのなかで、パラサイト(食客)のイメージと概念が徐々に変容し続けるというのか、緩やかに振動し続けているところだと思うんです。厳密な、一義的な定義は最後まで与えないわけですね。というか、それを拒んでいる。
概念の輪郭を意図的に曖昧にしておくという、戦略というか一種の知のたしなみを選ばれた。いろんな人のいろんなテクストとの、そのつど生じる半ば偶発的な化学反応みたいなものを体感しつつ、「食客」の主題の意味場が揺れたりぶれたりするさまを、楽しんでおられるように見受けられました。そしてその変容の現場を丁寧に言葉にされている。
しかし、註を見ると非常に周到にレフェランスを押さえていて、研究論文では全然ないんだけれども、ここでは星野さんのアーカイブに対するきわめて真剣で献身的な姿勢が示されている。緩やかに変容し、かつ振動し続ける「食客」論の流動的な運動が、最終的にはアーカイブの空間に見事につなぎ留められている、そういう趣向の本なんだと思います。
エッセイの形式としてもあまり見たことのない新しい姿をつくり出されたと思ったし、パラジットというテーマに向かわれたモチーフの一つとして、ここ十数年来、ずっともてはやされ続けている「共生」という行政的な流行語に対する違和感というか、居心地の悪さが底流しているわけですね。
「多文化共生」だの「他者への寛容」だのといったスローガンは結局、美辞麗句というか抽象的な美談でしかないのではないか、と。穏和な書きぶりとは裏腹の、そういうかなり辛辣な批評的な視線が全編に行き渡ってもいる。文章自体はたいへん典雅で堅実な文体で書かれているけれど、実はけっこう不穏で不逞な本なんじゃないかと思いました。