秋田城跡の復元大路で体感 想像以上に高度だった古代の道路築造技術
■透排水の工夫明らかに
秋田城跡は、政庁東門から外郭東門を通る東大路を320メートル復元している。路面幅12メートルで、両側に幅50センチ、深さ30センチの側溝を備える。
市道で2分されたうち外郭側130メートルは平成6~9年度の復元で、「土を突き固める版築の層を重ねた当時の質感を再現しようと、土に特殊なセメント材を混ぜた自然土系舗装にした」と、秋田城跡歴史資料館の岡部友明事務長。
復元から30年近くたち、勾配部は雨水などにより舗装面が削れているものの、平坦(へいたん)部はきれいに残り、土ならではの歩き心地だ。発掘調査に当たる同館主席主査の神田和彦さんは「路面の削れ方、はげた土の側溝へのたまり具合など、セメント材を混ぜていても、土の質感は出土遺構と非常に似ている。5期にわたる大路の出土遺構も30年前後で築造し直しており、耐久期間も似ている」と指摘する。
そして「当時の大路は砂を絶妙な割合で粘土に混ぜて、舗装面の硬さだけでなく高い透水性も確保した。さらに舗装下の路盤には粘土質のローム層に幅15~40センチの溝を何筋も横方向に掘り、浸透した雨水を道路両側に排水する構造になっている」と説明する。
現代人が考える以上に高度で、雨の多い日本の気候に合わせた道路築造技術が奈良時代にあったといえる。秋田城跡の復元大路は、その優れた古代道路の感触を直に味わえる数少ない史跡だ。
■「自然土系」消滅も
ただ、後から復元した政庁側東大路190メートルは、維持の容易さから樹脂系舗装になり、路面に粗砂利をまいている。アスファルトのような硬さとザラつく感触は決して良い歩き心地ではない。岡田事務長は「傷んできた外郭側大路は秋田市として舗装し直すことになるが、従来の自然土系にするか政庁側と同じ樹脂系にするか文化庁と協議する」という。自然土系舗装が消える可能性もあるのだ。
一方、多賀城跡は令和6年の創建1300年に向け、政庁から続く南大路270メートルの復元修復がほぼ終わり、外郭南門などの復元が続く。宮城県多賀城跡調査研究所の白崎恵介上席主任研究員は「南大路の大半は昭和63年に秋田城跡と同じ地元の土を使った自然土系の舗装で復元したが風化が激しく、真砂土(花崗(かこう)岩が風化した砂状の土)主体の舗装にした」と話す。
さらに「南大路は最も低いところの真ん中に石を詰めた排水桝(ます)と大路を横切る暗渠(あんきょ)があり、路面や側溝の雨水を流す構造になっている。道路を維持する排水の気遣いは今も当時も同じだ」と指摘する。
大極殿などが復元されている奈良市の国営平城宮跡歴史公園でも、幅74メートルの朱雀大路や同37メートルの二条大路を真砂土系の舗装で復元している。
【秋田城と多賀城】 秋田城は天平5(733)年、政治・文化・軍事の地方拠点である城柵として、朝廷が出羽国の最北に置いた。大陸にあった渤海国との外交拠点でもあった。89万平方メートルの国史跡として秋田市と文化庁が調査・整備を続けている。
多賀城は、神亀元(724)年に陸奥国の国府として置かれ、軍事を司る鎮守府も併設したとされる。107万平方メートルの国特別史跡として宮城県と文化庁が調査・整備、多賀城市も整備を行っている。
【記者の独り言】 自然土系舗装の秋田城跡東大路を歩くと、古代の道路技術の高さに感心させられる。舗装の更新を控えた秋田市は、樹脂系舗装にする可能性を否定しない。だが、多賀城跡や平城宮跡では真砂土系舗装で復元されている。自然土系より人工的だが樹脂系よりはいい。耐久性や透水性にも優れる。ただ、古代とまったく同じ築造法で大路が復元されれば、それは全国初であり、考古学ファンならずとも大歓迎なのではないか。(八並朋昌)