【書評】世界的デザイナーの生涯を振り返る:鈴木三月著『高田賢三と私 「パリの息子」とすごした37年間』
世界的に著名なデザイナー高田賢三氏(以降敬称略)が新型コロナ感染症により他界したのは2020年10月4日のことである。享年81。37年の間マネージャーを務め、公私にわたって身近に接してきた著者が、鎮魂の意をこめて高田と過ごした日々を振り返り、彼の素顔を書き綴った。
著者と高田の出会いは1983年のこと。あるきっかけから彼のライセンス関連の仕事を手伝うようになり、1990年に自身のPR会社を設立すると同時に、KENZOブランドのPR担当としての業務が本格的にスタートした。彼女は高田よりちょうど20歳年下だが、高田が逝去するまで最も身近にいた人物の一人である。
それだけに、この1冊を読めば、世界的デザイナーの功績とともに、彼の趣味嗜好やパリでの華やかな生活ぶり、なにより、その人となりとがよく分かる。シャイだけれども誰に対しても謙虚で丁寧に接し、最期まで精力的に仕事をこなしていた。本書では、そうした高田の素顔が豊富なエピソードをもとに著者のやさしい語り口で綴られていく。
高田が文化服装学院を卒業し、渡仏したのは20代半ばのことだった。何のコネもなくデザイン画をブティックに売り込んでいくことから始まり、そこからの刻苦勉励(こっくべんれい)と最晩年までの成功譚は本書に詳しいが、ここでは興味深い後年の挿話を2つ紹介しておきたい。
2004年のアテネ五輪、日本選手団の公式ユニフォームの制作を手掛けたのは「ユニクロ」(株式会社ファーストリテイリング)で、デザインを依頼されたのが高田賢三だった。その前年、彼は同社の柳井正社長と面会するために帰国。事前にデザインした数枚のスケッチを用意し、社長に見せた。その反応は「富士山、桜、ですか……何だか昔の日本ですね」というダメ出しみたいなもの。同席した著者は、
きっと喜んでくれるだろうとばかり思っていたので、困惑してしまった。賢三さんの感性で一生懸命に描いたはずなので、そんな感想はないと思ってしまった。
ところが高田は違った。その帰り道に彼は言った。
「僕のアイデアをちゃんと見てくれて、率直な感想を言ってくれました。そのとおりだと思いましたよ」と何度もうなずきながら、反省しつつもプラス思考だ。どんな意見でも尊重して受け止める、謙虚な姿勢と率直さ(略)落ち込むどころかさらにやる気を出し、「こんなデザインはどうだろうかと、夜までアイデア話に花を咲かせた。