「最初から最後まで全部を見てやる、見せてやる」川上未映子にとって「小説を書く」行為とは
90年代東京を舞台に、金と家の相克を生きる少女たちを描いた『黄色い家』。狂騒の資本主義と生の切実さが衝突する本作に込められた作家の魂とは。批評家の大澤聡さんによる、川上未映子さんのロングインタビュー「エクストリームで個人的なものとしての文学」(「群像」2023年5月号掲載)を再編集してお届けします。「【前篇】川上未映子が最新長篇で見つめる「90年代」特有の空気。XJAPAN、ラッセン、トラウマ、岡崎京子・・・」からつづけてお読みください。
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大澤 花と蘭と桃子と黄美子がこたつに足を突っ込んで上半身だけ覗かせているから「ひとつの塊のようなもの」に思えてくるという何気ないくだりが印象に残っているんですが、あんなふうに全部がどろーっとくっついて一体化するイメージ、あれもまたじつに90年代的です。
ちょうどこのインタビューが載る「群像」2023年5月号の「国家と批評」で書いたんだけど、明治末期に、単細胞生物から人間にいたるまでの進化を直線的に説明するダーウィニズムやヘッケルの生命論の影響もあって、心身一如の一元論が流行るんです。
宇宙との一体を直感してしまうような生命主義、あれと似た思想が90年代にはリバイバルします。一方では、クローン羊が世間を騒がせ、遺伝子工学や臓器移植など生命観の根幹をゆるがす技術の新たなフェーズに入る。他方では、ヨガ道場から始まって身体を超克して超越に行くオウムみたいに、新興宗教やスピリチュアル系は生命と宇宙の一体化を目指します。ビジュアル系も「破滅に向かって」身体の限界を突破しようとする。
川上 本当に「超越」できたら、いいんだけど。
大澤 これが具現化するとカルトの教祖となって、家父長化する。ところが、吊り上げられまくった一体感がゼロ年代になるとふっと消滅する。「家」の問題もそうで、ゼロ年代のドラマや漫画が描くのは新しい家のかたちですよね。血縁関係のない擬似的な親子関係だったり、少し後になるとシェアハウスだったり。90年代の離婚率の上昇が時差を伴って効いてくる。そういえば、『黄色い家』には「こたつぶわん」も出てきますね。
川上 こたつの温かいふとんを、ぶわんとしてもらうやつ。
大澤 あの一体感と安心感。ミッフィーで知られるディック・ブルーナが昔から好きなんですが、家の中のシーンの背景に黄色を多用するんです。黄色はあたたかさや安心の色なんだとブルーナは自己解説している。