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「否定性」と「私ら」
2023-05-05
「否定性」と「私ら」

 大江さんのデビューによって、当時、いかに多くの小説家志望の青年たちが、その夢を断念したことか。こんな“伝説”が、私が出版業界に足を踏み入れた頃には、年長の編集者たちによってまだよく語られていて、実際に、自分こそはそうだという人にも会ったことがある。

 それは、決して大袈裟な話ではないだろう。同世代人ではない私にせよ、彼らを失意のどん底に突き落とした大江さんの初期作品を読むと、その圧倒的な才能にすっかり自信喪失したもので、今読み返しても、溜息が漏れるばかりである。

 傑出した小説家は、近代以降の日本の文学史に何人もいるが、小説というのは、こういう人こそが書くべきなのだということを、大江さんほど痛感させる小説家はいないように思う。

 現実を「異化」するその冒険的な着想や、自然や無意識と日常生活とを複雑に、有機的に結びつける豊富な比喩群、他者として読者と強烈に遭遇する登場人物たち、現実の出来事以上に鮮烈な記憶として残る各々の場面、四国の「森」を中心に、読者の中に幾つもの場所を占める文学的トポス、そして何より、極度の緊張感を以て、核兵器のような世界規模の危機から、誰が触れても壊してしまうような繊細微妙な心理までを余すところなく汲み尽くして、文学以外の方法では、決して表現することの出来ない思想へと至らしめる文体。――そうした大江文学の体験は、常に比類なく、しかもそれは、必ず一個の問いであって、その作品を手に取るや、私は、自分が今生きているというその最も単純で且つ根源的な事実に必ず直面させられ、深く考え込むのだった。

 『晩年様式集』の最後に置かれた詩にある通り、大江文学こそは、「否定性のただなかに、/ひとり垂直に立つ。」ものだと思うが、その上で猶、「私ら」――或いはかつての「われら」――の「ら」という共同性の表現が、いかに可能かという不断の試みでもあった。
 大江文学への私の最初の強い共感は、初期作品に描かれている死のイメージだった。

 『芽むしり仔撃ち』の中には、次のような一節がある。

 「《死》は僕にとって百年後の自分の不在、幾百年、限りなく遠い未来の自分の不在ということだった。それら遠くはるかな時代にも、戦争が行なわれ子供らは感化院に収容され、同性愛の男らのための娼婦をつとめる者らがおり、極めて健康な性生活をおくる者らもいるだろう。しかしその時僕はいない。」

 同様の認識は、『セヴンティーン』の中でも再提示されている。

 「死の恐怖、おれは吐きたくなるほど死が恐い、ほんとうにおれは死の恐怖におしひしがれるたびに胸がむかついて吐いてしまいそうだ。おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に! おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたび恐怖に気絶しそうだ。」

 若い頃に私の抱いていた死の不安は、まさにこの通りだったが、なぜか、人に説明して理解されたためしがなく、大江さんの本で初めてそれが――しかも余すところなく――言語化されているのを目にした時には、まさにこれだ! と刮目し、慄然としたのだった。私が、大江文学との間に最初に見出した根源的な「私ら」の条件は、こうした死の認識であり、生はこの果てしもない暗黒の上に、不安げに浮かび上がっている脆い何かのように感じられた。

ソース元URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/a16c40a65941e1c30791cb804cfdcf57b7256b2c

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