未完の天才・南方熊楠は、なぜキノコの新種を発表しなかったのか…海外の研究者に頼れなかった「孤独の理由」
変形菌(粘菌)とちがって、熊楠はキノコについてきちんと発表しなかった。熊楠のキノコ研究が変形菌と比べて有名でないひとつの理由はここにある。なぜリスター父娘に相当するようなイギリスの専門家に送らなかったのかというと、キノコは変形菌とくらべて地域差が大きいからだ。共通する種もなくはないものの、イギリスと日本だったら、ほとんど同じキノコは生えない。
さきに述べたように、キノコの多くは植物と共生して菌根をつくる(シイタケなど枯れ木に生えるものは別)。現在では、被子植物、裸子植物、シダ植物のほとんどと、コケ植物の一部が菌根を形成することがわかっている。それらの植物の根に菌糸が入りこみ、植物からは光合成でつくられた有機物が提供され、菌からは窒素、リン、水などがもたらされる。
多くの植物は、共生している菌類をとりのぞかれると枯れてしまうという。起源は古生代のデボン紀といわれるほど古く、それだけ植物にも菌類にも欠かせないシステムとなっている。しかも、ある植物には特定の菌類と、組み合わせが決まっていることが多い(完全な一対一対応ではない)。変形菌が枯れ木や枯れ葉を栄養としており、どこにでも生育できるのとは、大きく異なるのである。
このような理由でキノコは地域性が強く、イギリスの権威たちに頼れなかったのであった。イギリスでもキノコはアマチュア博物学者たちの関心を集め、古くから研究され、多くの図鑑が出版されていた。ところが、それらを見ても日本のキノコのことはわからない。変形菌とは、大きく状況が違った。キノコを研究するにあたって、熊楠は独力で進めなければならなかったのである。
同時にそれは学会への発表手段を欠くことも意味する。熊楠はイギリスとのつながりを重視しており、日本の研究者を軽視する傾向があった。日本にももちろん当時からキノコ研究者はいたものの、彼らに対して情報提供者という下位の存在に甘んじるのは我慢ならなかったのだろう。熊楠は日本で出たキノコの図鑑ももっていたが、南方熊楠顕彰館に残るそれらを見ると、種名が並んでいるだけで、図がない。これでは、熊楠の役には立たない。結果として、熊楠は自分ひとりで研究することになった。発見した種が新種であるのかどうかも、よくわからない。孤独な作業であったはずだ。