【書評】小川洋子の世界を堪能できる短編集:小川洋子著『掌に眠る舞台』
日本の作家のなかで、ノーベル文学賞候補のひとりといわれているのが小川洋子である。彼女の作品は広く海外で翻訳されているが、ここに紹介するのは彼女の最新刊だ。「舞台」にまつわる8編の物語が収められた本作は、わたしたちをシュールで不可思議な世界へと誘(いざな)ってくれる。
小川洋子は『妊娠カレンダー』で1990年下半期の芥川賞を受賞しているが、一躍脚光を浴びるきっかけとなったのが、2004年第1回本屋大賞に選ばれた『博士の愛した数式』である。以後、人気作家の地位を不動のものとした彼女の作品は広く海外でも翻訳出版されており、『密やかな結晶』(英訳タイトル『The memory police』)は、19年「全米図書賞」翻訳文学部門と20年英国「ブッカー国際賞」の最終候補に残っている。
『密やかな結晶』は架空の島を舞台に、モノと人々の記憶が失われていく物語だ。その島では、船のフェリー、鳥、香水、バラの花と次々に消滅していき、住民はそれを受け入れていく。従わない者は、秘密警察の「記憶狩り」によって連れ去られる。抵抗する主人公のひとりはこう言う。
「支配する側にとってみれば、あらゆるものが順番に消えていくこの島で、消えないことはもうそれだけで不都合だし、不条理なんだろうね。だから自分たちの手で、無理矢理消していくんだ」
ディストピアを描いたこの作品は、このご時世であるからこそ読んでほしい。
表題作には8本の短編が収められている。そこには長編とは違った魅力がある。
「指紋のついた羽」:町工場の路地でいつもひとり遊びをしている少女は、工場の社長の奥さんからもらった招待状で、縫製工場の縫子さんとバレエ「ラ・シルフィード」を町の文化会館に観に行く。それは妖精が青年に恋をする物語だ。すっかり魅了された少女は、妖精に届くはずのない手紙を書く。少女の願いはかなうのか。縫子さんはあることを思いつく。
「ダブルフォルトの予言」:30年あまり洋品店をひとりで営んでいた未亡人は、交通事故をきっかけに店をたたむ決心をする。あるとき、帝国劇場の前を通りかかったときに『レ・ミゼラブル』のポスターを見て、2カ月間にわたる全公演のチケットを買うことにした。それから毎日、劇場通いが始まったが、劇場の奥まった部屋に暮らしているという不思議な女性に声を掛けられる。彼女は自分の仕事は舞台で役者が失敗しないよう、あらかじめ身代わりになる「失敗係」と言っていた。奇妙な友情が育まれていく。公演が千秋楽を迎えたとき――。
「装飾用の役者」:長年、フリーのコンパニオンとして働いてきた「私」は、数々の雇い主と出会ってきた。とりわけ特異な体験は、高級住宅街に住む裕福な70代後半の老人から依頼された仕事だった。条件は屋敷内に住み、勤務中は決して外出してはいけない。あてがわれた離れの部屋は小さな劇場だった。彼女の役割は、舞台上に設えたセットのなかで生活すること。ときどき、老人が杖をついて現れ、暗闇の客席からその様子を眺めていた。彼女は「装飾用の役者」であった。ガランとした客席は墓石に似ている。終わりは呆気なく訪れた。
小川洋子はいくつも短編集を出している。彼女が創造する世界に共通しているのは、登場人物たちがリアルな日常と幻覚のような非日常との間の、目には見えない壁をスルリと行き来するところである。あるときはそこに眩いばかりに美しい光景が広がり、またあるときは闇に包まれた邪悪な世界が存在している。本作に収められた物語は、よりシュールになっている印象を受ける。