哲学者・千葉雅也が語る、「現代思想をスルメのようにじっくり噛み締める」ための方法
――インタビューの前編で千葉さんは、現代思想を「使い倒す」という言い方をされていました。本書を読んでいると、千葉さんご自身の人生が垣間見えるような瞬間もしばしばありましたが、そうした議論のしかたについては、書きながら意識しておられましたか?
千葉 現代思想については、これまで20年以上も読み書きしているので、自分に染みついたことを語ったら、やはり何かしら身体的なものとして表れてくるのだと思います。人生の知恵というか、一種の「先輩語り」みたいになる可能性もありますから、本書では、できる限り書き手と読み手のフラットな関係性を心がけました。
もっとも、フラットさだけを重視しているかというと、そう単純な話でもない。もちろん歳を取ることで見えたものもあるし、そうした距離感も教育的には必要だと思うからです。
若いころの自分は、年齢を重ねたことによる「経験知」から生まれる、年長者と年少者の落差のようなものが嫌いでした。でも次第にその落差を、年長者という立場からも、年少者という立場からも、ある程度意識的に使うことができるようになってきた。年齢を重ねて身につく知恵というものがわかってきたと言えばいいでしょうか。本書での言葉を使えば、イエスorノーで割り切れない、必ずしも管理できないものをそのままにしておく「グレーゾーンの発想」みたいなものは、歳を取ると、しみじみとわかるようになるものです。
千葉 人はだんだんと妥協を覚えるものだし、白か黒かではなく「グレー」の部分にあるものに寛容になっていくものです。そもそも脱構築みたいな発想を、生活のいろいろな場面において深いレベルで感じ取っていくには、年齢を重ねていろいろな事柄を自分の身体に通過させ「やむを得なさ」を受け入れるしかない。
しかし一方で、そのことを、「ある種の経験知」だと言い切ってしまうと反発を受けてしまうし、議論も平板なものになりがちです。そうではなくて、ロジックになりにくい、ロジックに抗うものをギリギリまでロジカルに考えようとする――それがポスト構造主義的な発想ではないでしょうか。
言葉になりにくいものをハッキリさせようとしすぎてしまうと「若い明晰さ」に止まるし、かといってモヤモヤしたところばかりだと「年寄りの説教」みたいになってしまう。そのどちらでもない、若さと老いを脱構築するような語りというか、「年齢不詳の語り」を目指したと言えるかもしれません。僕自身も年齢不詳だとよく言われますし(笑)。