与謝野晶子ゆかりの温泉宿
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与謝野晶子は、おそらく当時最も多くの温泉を訪れた歌人ではないでしょうか。2010年刊の杉山由美子(すぎやま・ゆみこ)『与謝野晶子 温泉と歌の旅』(小学館)の巻末に収められた「与謝野晶子が訪ねた温泉一覧」によると、晶子が訪れた温泉地は全国で109か所にのぼります。温泉地だけでなく、泊まった温泉宿が現在の旅館名でリストアップされていますので、この本をガイドにして、晶子ゆかりの温泉宿を訪ねることもできます。
今回取り上げる上州(群馬県)四万(しま)温泉の田村旅館(現在の「温泉三昧の宿 四万たむら」)は、室町時代から続く老舗の宿で、与謝野鉄幹(てっかん)・晶子夫妻だけでなく、若山牧水(わかやま・ぼくすい)、斎藤茂吉(さいとう・もきち)など、多くの歌人が訪れた記録が残されています。大正十一年に、晶子がこの宿に宿泊したときの一首を紹介しましょう。
同宿の人の乾したる薬草にこころ引かれぬ気の病して
与謝野晶子『流星の道』
「気の病」とは、精神的な疲労から生じる病気のことを言います。前掲の杉山氏の著書によると、晶子が全国の温泉地を訪れた目的の一つは、講演や揮毫(きごう)によって収入を得るために地方に行く必要があったためだったそうです。現在の私たちから見ると、全国各地の温泉を巡っていて優雅でいいなぁと思ってしまいますが、晶子にとっては仕事が目的での旅行でもあったわけですので、当然、気苦労もあったのでしょう。この一首の詳しい背景は分かりませんが、同宿の人が乾(ほ)した薬草に心ひかれる気持ちの底には、講演などの仕事に追われての気疲れがあったのかもしれません。
私が現在の「四万たむら」を訪れたのは、2013年の秋のことです。老舗の風格が漂う立派な旅館で、様々(さまざま)な趣向を凝らした温泉は本当に素晴らしく、岩魚(いわな)の源泉蒸しなどの料理も格別でした。周辺には小さな温泉街があり、四万川もすぐ近くですので、散策にもおすすめです。晶子の歌を思い浮かべながら、日々の疲れを癒やしてみるのもいいでしょう。
■『NHK短歌』2022年2月号より