門井慶喜の史々周国 日本的学問への異議申し立て 津山洋学資料館
率直に言って、目立つ藩ではない。石高はたかだか十万石だし(時代によって差がある)、藩主家は譜代の松平氏ながら特に開明的な人物は出していない。
だいいち地理的に山奥である。当時の科学はいわゆる蘭学で、本や道具や標本などは長崎からしか入って来ず、長崎以外でさかんになるのは江戸、大坂、京あたり。東海道すじの大都市だけだったのだ。
このからくりは、意外とかんたんに説明できる。江戸屋敷である。藩主が参勤交代で江戸に滞在するとき使う施設。
津山藩のそれは何しろ松平氏なだけに鍛冶橋門内(現在の東京駅付近)という優良地に置かれ、常駐の藩医も置かれた。この藩医のひとりが宇田川玄随(うだがわげんずい)、もともと漢方医だったのが転向して蘭医となり、津山蘭学の魁(さきがけ)となったのである。
転向したのは杉田玄白の影響だった。そう、あの日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書『解体新書』の訳者である。蘭学勃興期の第一人者。しかしながら玄随もまた同様に後進を転向させている。たとえば伊勢出身の漢方医、安岡某。
安岡は『傷寒論(しょうかんろん)』の読解にそうとう自信を持っていたらしい。『傷寒論』というのは中国漢代に書かれた漢方の聖典で、その評釈の原稿を持って江戸中の医者を訪ねてまわり、意見を乞うていたというから一種の道場やぶりでもあるだろうか。ところが宇田川玄随のところへ来てみると、玄随は、
「『傷寒論』ですか」
と言って原稿を突っ返し、ひらいて見ようともしなかった。安岡が不満の意をあらわしたら、
「私も、はじめは漢方でしたが」
と前置きして、双方の差を歴然と説いた。
いったいに漢方が症状と対処法を経験論的に分類しているだけなのに対し、蘭方には「原因」という概念があること、その「原因」すなわち経験的事実の奥にひそむ本質の追究こそが真の目標であること等をあるいは述べたのかもしれない。安岡は辞してから原稿を引き裂き、あらためて入門を乞うて、月に六回ひらかれる講義の席につらなった。
安岡はとても優秀だった。結局、玄随の養子となり、家を継いで宇田川玄真となってしまった。その玄真の次の代の榕菴(ようあん)もまた養子で、これは実父が美濃大垣藩の藩医だった。
つまりここでは、宇田川家というのは封建的な「家」ではない。地縁を無視して、血縁も無視して、ただ有能かどうかで人材を選んでトップに据えるという点でむしろ近代的な法人に近く、なかば宇田川研究所のようなものといえる。
ただしこの「法人」は、自分でお金が稼げるわけではない。学塾は大規模にはならないし、たとえ病院をひらいても患者のほうで恐れて来ないだろう。その経営が津山藩の殿様にもらう俸禄によって成立していたことは確かなわけで、この点では封建主義の支配下にあった。
いわば中世と近代のいいとこ取り。それにしても宇田川三代の業績はおどろくべきものだった。玄随はハイデルワイク大学教授ヨハネス・デ・ゴルテルの内科書を訳して『西説内科撰要』全十八冊を刊行しようとし、しかし途中で死んだので玄真があとを継いで完成させた。
蘭方版『傷寒論』というべき王道の書である。その次の榕菴にいたっては医学以外にも手をひろげて、化学、植物学、薬学、動物などに関する厖大な数の本を書いた。
これらはもちろん各人の業績であるとともに、ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」がメディチ家の絵だというのと同様の意味において、津山藩の業績である。日本的パトロンの一形態というべきか。世間の目がつねに蘭学に対して寛容なわけではなかったこの時代に、それでも禄をあたえつづけたのだから、これはやはり一種の開化思想だと思う。この藩はほかにも箕作阮甫(みつくりげんぽ)、箕作秋坪(しゅうへい)、久原洪哉(こうさい)、原村元貞(げんてい)などの碩学や名医を輩出しているのである。
彼らの仕事は、いま津山洋学資料館でしのぶことができる。印象的なのは前庭の銅像だ。あの綺羅星(きらほし)のごとき科学者たちが、てんでんばらばらな方向を向いている。
最初は落ちつかないけれど、慣れたらこれが正しい気がする。何につけても全員でおなじほうへ行きたがる日本人の学問ないし社会に対する異議申し立て、と見るのは深読みだろうか。