冥界の芸術家らが語る 横尾忠則さん異色小説「原郷の森」
「美術家は、言葉を超えた概念を表現する。文学者には書けない、絵のような小説を書きたいと思った。絵画-特に僕の絵はフィクションとノンフィクションが合体したもので、それを言葉にできないかと」
主人公Yは横尾さん自身。東京・成城のアトリエは実際、森の端にあり、そこから想像の「原郷の森」へとワープする。暗闇の森や絵画の中の森、かつて訪れた外国の地、はたまた宇宙空間などと、シチュエーションはさまざま。そこでは時間は存在せず、Yは生前親交のあった作家の三島由紀夫に導かれ、歴史上の多彩な人物を紹介される。画家、作家だけでなく映画監督や科学者から、ブッダやキリスト、孔子、空海ら宗教者・哲学者まで。Y以外の全員が「死者」。原郷とは、現世での生を終えた後に還(かえ)っていく、すべての人間の魂の故郷らしい。
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「ピカソやデュシャンら僕が尊敬する芸術家を中心に、世界中の先人に『ヨコオ論』を語らせたら面白いんじゃないかと思ったんです」。確かに本作の核は「死者が語るヨコオ論」だ。Yの芸術の神髄にあるもの、制作態度や進むべき道など、先人たちはあれこれとYにアドバイスする。
三島は生前、横尾さんに「真の芸術はその内部に『霊性』を宿す」と繰り返し語ったという。死後の世界では芸術家は本質を問われ、小手先は通用しない。冥界(めいかい)の谷崎潤一郎はこう言い放つ。「知性でつくったものは子供だましなんだ」
でも、ヨコオ論を書いているのは横尾さん自身。「書きながらどういうわけか、登場人物と自分が一体化する瞬間があるんですよ」。普段私たちが自分の言葉や思考としているものにも「誰かの言葉や読んだ小説、映画など、他の存在が入り込んでいる」と横尾さん。自身と第三者のヨコオ論が溶け合い、小説の中では時に、鋭い批評を自らに向ける。「人間関係のない死後の世界で、媚(こ)びは不要」。裏を返せば、現世の美術評論やメディアが的確に、忖度(そんたく)なく、ヨコオ論を語れていないことへの不満があるのではないか。
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原郷では皆、おしゃべりに忙しい。「小さい子供って、ずっと独り言を言いながら遊んでいるでしょ。あんな自由奔放な感覚で書けないかなとほぼ全部、会話体にした。観念的、論理的なことを言う人もいれば、それを茶化す人も。会話の流れをぶった切る人もいる」
書きたかったのは「人間の多面性」。真面目さや滑稽さなど「一人の人間が持つ多様な性格や感性が面白い」。それはここ数年、コロナ禍の中で横尾さんが取り組んでいる絵画シリーズ「寒山拾得」にも通じ、小説内でも論じられている。
森鷗外の小説でもおなじみ、唐代の詩僧を描いた伝統的画題。横尾さんが描く寒山は巻物をトイレットペーパーに、拾得は箒(ほうき)を電気掃除機に持ち替え、好き勝手にふるまう。のびやかな筆触による大作群は昨年、東京都現代美術館での大規模個展で公開されると、新境地として反響を呼んだ。
「手が腱鞘炎(けんしょうえん)でまっすぐ線が引けず、目も朦朧(もうろう)とする。そんなハンディキャップを逆利用し、自然体で描けた。ふにゃふにゃの線も今の僕」と笑う。小説も絵画も、型にとらわれず、自分を解き放つ。「われわれは本来何でもありの存在なのに、自分で規制をかけ、社会に通用する自分を演じている。寒山拾得は人間の多面性や宇宙の森羅万象をも内在する。その姿を描くことで、僕は自分の中の寒山拾得を吐(は)き出し、本当の自分にちょっと出会えたような気がします」