新選組・近藤勇の甲冑か 富山・国泰寺で発見 山岡鉄舟「寄進」
国泰寺は南北朝時代創建と伝わる古刹(こさつ)。江戸時代には、住職が江戸で将軍にあいさつができるほど格式が高く、三代将軍家光から十三代将軍家定まで歴代将軍の位牌(いはい)が安置されるなど徳川家と深いゆかりを持つ。
2020年秋、富山県射水市新湊博物館の松山充宏・主査学芸員(日本中世史)が展覧会準備のため、1944年作成の寺の宝物台帳を調査したところ、「新選組隊長近藤勇ノ著セシモノニテ鉄舟居士寄進ノモノ一具」との記述を発見。その後、寺内によろいかぶと一式が保管されていることも分かった。寺所蔵のよろいかぶとは当該の一式しかなく、専門家の鑑定でも室町から江戸時代にかけて作られたと判明したため、これが台帳記載の近藤着用のものと判断した。今回、22日~6月26日に同館で開催される企画展「武士の時代」開催を前に、改めて発表した。
ただし、かぶとに載る「蛇の目紋」は近藤家の紋ではなく、近藤が活躍した幕末は、既に重量のあるよろいかぶとを着用して戦った時代ではないため、松山さんは「大名家などから借りて、儀式や行事の際に礼装として着用したのではないか」と語った。
ではなぜ山岡鉄舟が寄進したのか。山岡は当時幕府の役人として1863年の新選組創設にも深く関わった。幕府が浪士を募集した際にも近藤と対面し、その後の上洛(じょうらく)にも同行。山岡との交流を示す記述が残る近藤の手紙も残っているいう。山岡は維新後、明治政府に仕え、78年の明治天皇の北陸行幸に同行。その際、徳川家ゆかりの同寺を訪ねたところ、あまりの荒廃ぶりを見かねて自ら1万枚以上の書を揮毫(きごう)し販売することで、寺を再興したとのエピソードが残る。そのため同県内には山岡の書が今でも多数残り、寺では山岡の位牌もまつる。
寺には、よろいの袖や足回りの部品約10点も残るが、傷みが激しく、今回の展示はよろいとかぶとのみ。さらに近藤勇の直系子孫は途絶えているため、DNA鑑定もできず科学的な裏付けは不可能という。それでも今なお人気が衰えない新選組ゆかりの品には熱き武士の魂がこもり、展覧会はファン必見となりそうだ。松山さんは「富山は新選組との関わりが薄いとされるが、残された武具から近藤の情熱を感じてほしい」と話した。【青山郁子】