日本での3年が制作活動の礎に──フランス人アーティストが見た現代の東海道五十三次
高校をすべて退学になり、すぐにルイ=シプリアン・リアルは「経験から世界を学ぶ」ことを決心した。見知らぬ国の誘惑は、まず彼を日本へと誘った。23歳のときだった。このフランス人アーティストが、その経験について言及することは少ないが、彼の眼には、日本滞在は自らの「基盤」として映っていた。
その滞在は、彼の将来の放浪を予告していた。チェルノブイリ、イラク、ソマリア、そしてナゴルノ・カラバフへ。しかし彼が写真にのめりこむきっかけは日本であり、ある方法論を確立させたのが日本である。
「決しておしつけることなく、ベルント・ベッヒャー、ヒラ・ベッヒャーのように、客観的な姿勢でいること」
パトス、そして情動を拒絶するにあたって、おそらく日本ほど好都合な国はないだろう。しかしながら、2005年から2008年まで、ルイ=シプリアン・リアルが日本にスーツケースを置いていた背景には、やはり日本への愛がある。
彼の背中を押した最初の旅は、多くの先人と同じように、解読不可能な記号に満ちた世界への旅だった。まず彼は、共同製作者アドリアン・ミシカと共に、高層ビル群の間に腰を据えた小さな警官の詰所、つまり交番の写真を撮影した。
日本文化にのめり込んだ外国人誰もが感じる時間的、空間的なズレの感覚が、ある途方もない計画によって具体化された。ルイ=シプリアン・リアルは、2007年に2ヵ月のドライブ旅行を行い、東京から京都を結ぶ道中で、有名な浮世絵師、安藤広重によって描かれた東海道五十三次の風景を現代日本の中に見出そうとした。旅程は綿密に立てられた。
節約のため、ルイ=シプリアン・リアルは、ラブホテルに泊まった。日本ならではのこの施設は、カップルが親密な時間を過ごすために訪れる場所である。
宿場町に着くごとに、彼はグーグル・アースのデータを利用した。安藤広重の風景にできるだけ近づけようとしても、500mから600mのズレが生じることもあった。「宿場に来るたびごとに、私はそれが広重の風景どおりかどうかを検討しました。しかし、計画の本質を見失うといけないので、そこまで厳密ではありませんでした」と彼は説明する。
リアルは、決定的な瞬間を捉えるために、鉄の掟を自らに課した。最初の宿場である東京の日本橋では、車も歩行者もない、完全に無人の明け方の道の写真を撮るために、3日待たなければならなかった。「待ち望むタイミングは2秒間しかなかった」と彼は語る。東京を出る時には、彼はフラストレーションでいっぱいだった。
今日の日本で、安藤広重によって昇華された理想の風景を見つけ出すのは難しい。コンクリート舗装は、田園風景や海岸風景を様変わりさせた。
江尻宿の海沿いには工場が立ち並んでいる。鳴海宿の小路の景色は、高速道路のインターチェンジによって寸断されている。8番目の宿、大磯で、彼は眩暈におそわれた。彼が撮影した写真が、広重の描いた構図の配置と、ぴったりと一致したのである。しかし、もはやそれは問題ではない。