千田嘉博のお城探偵 広島県・福山城 西国に輝く伏見城ブランド
福山城の雄姿は高架上を運行する新幹線の車窓からも眺められる。本丸の奥にそびえる天守は1945(昭和20)年の空襲で焼失し、1966(昭和41)年に市民の寄付をもとに再建したものである。そして2022(令和4)年には天守を耐震補強するとともに、スロープやエレベーターを設置するバリアフリー化工事も実施した。すべての人が等しく歴史を体感できる天守を実現した福山市民に心から敬意を表したい。さらにこの天守リニューアル工事の一環として、天守北側の鉄板張りもよみがえった。山が迫る天守の北面に鉄板を貼り付けて、砲撃に耐えるようにした守りの工夫が見事によみがえった。
この福山城を築いたのは水野勝成(かつなり)。江戸幕府は1619(元和5)年に広島城の無断修築の罪で福島正則を改易し、正則が治めていた安芸・備後2国を分割して新たな大名を封じた。そのひとりが勝成だった。勝成は16歳で初陣して徳川家康に仕えたが、21歳のときに自分の悪口をいったとして家臣を斬り殺して父親から勘当された。
勝成は豊臣秀吉、佐々成政、小西行長といった大名家に仕官した。ところが勝成は多人数を殺傷して逃走したり、仕官先から無断退職したり、懲戒解雇されたりする荒れた生活をつづけた。そんな暮らしを15年も重ねた1599(慶長4)年、36歳になった勝成は徳川家康の仲介で父と和解して家に戻り、翌年に水野家の当主になった。
戦国武将には尖(とが)った人物が多いが、勝成ほどいったん、道を踏み外しながら大名に復活した人は珍しい。若いときに過ちを犯しても、人は立ち直って生きられることを勝成は身をもって示している。今、失敗や過ちにくじけている人は勝成にあやかってほしい。そして大名になっても勝成は合戦での一番槍にこだわりつづけた。戦場で大名を先頭に突進してくる水野軍は、敵にとって恐怖そのものだった。
だから豊臣家に恩義を感じる大名が多い西国に、江戸幕府のにらみを利かすのに勝成は最適だった。勝成はその期待に応えて福山城を完成させ、幕府は勝成をバックアップするために特別な贈り物をした。それが幕府の拠点であった京都伏見城の建物を福山城に移築することだった。『水野記』などによれば、伏見城から御殿、伏見櫓(三階櫓)、湯殿(月見櫓/御風呂屋)、火打櫓、大手門(鉄門)、多聞櫓、塀などを移築した。
福山城では幕府からもらった伏見城ブランドの櫓を最大限生かすために、城下町を見下ろす本丸南側に、伏見櫓や湯殿などをずらりと建て並べた。伏見城ブランドにはそれほど圧倒的な効能があったらしい。次に福山城を眺めるときは、城壁上の櫓の美しさだけでなく、江戸幕府の輝く伏見城ブランドの力も実感してほしい。(城郭考古学者)
■福山城 徳川家康のいとこにあたり、備後10万石の領主となった水野勝成が1622(元和8)年に完成させた。西国の守りとして重視され、伏見城の伏見櫓などが移設された。水野氏の後も松平氏、阿部氏といった譜代大名が藩主となっている。福山駅と城が接しているのは、明治の廃城令で敷地が買い取られ、鉄道用地となったため。駅は三の丸、線路は外堀にあたる。