蓮沼執太が語る、いまある音楽への疑いと試行。「まだレコーディングした音を音楽として聴いてるんですか?」
──蓮沼さんの活動は本当に多彩です。あるときは音楽家として、あるときはアーティストとして、複数のフィールドを飛び石の上を渡るように軽やかに横断しているイメージがあります。ご自身の活動をどのようなイメージで展開していますか?
僕の場合は、大きな目的とか目標をそもそも設定せず、点と点の連なりのようなイメージで活動しています。地図を持たず、漠然と描いた目的地に近づいていくようなことをずっとやってきたんじゃないかな。
あと、「こういう人になりたい」とか「作品がたくさん売れてお金持ちになりたい」とかSNSを通して「こう思われたい」みたいなものが正直なくて、ひとつずつ活動し、ひとつずつ分析して反省していくことの繰り返しです。自分にできることは限られているので。
──その目的地はそのつどどうやって見つけていくんですか?
いろいろな条件設定や問題意識を起点にしていつも考えてます。たとえば、今度横尾さんの美術館で展示があるので、「横尾忠則」という存在について考えてみる。蓮沼執太フィルのライブのアンサンブルでは、十数人の演者とどのように2時間というコンサートの時間を展開させていくか条件を出していく。そんな雰囲気ですね。特にライブ・パフォーマンスでは、事前に論理や理屈で固めすぎないようにしてやっていくことを大切にしています。
──考えながらもその時々の興味に沿って動いていくような進め方ですね。
そうですね。現代を生きている人間のひとりとして、その時代の雰囲気や空気に影響を受けているはずです。作品制作において、社会とは無関係に自分の関心を突き詰める人も当然いるんですけど僕はそうではなく、自分の作品のなかに人を介すことから、このような発想に至るのではないかと思います。
──興味に従いながらも自分の関心ごとを突き詰めるわけではなく、あくまで時代の雰囲気や空気に反応していくというような。
そう。そこが自分の“とらえようのない感じ”として出ちゃってるのかもしれません。でも自分は自分ですし、嘘はつけません。もはや“とらえようのない感じ”で突き進む、というモードです。でも、やってもわかってもらえないようなときも当然あって「どうしようかな?」と悩んだこともあったりはしましたけれど、あんまりそんなことばかり考えてもしょうがないなと。このインタビュー、正直モードで話してます(笑)。
──“とらえどころのない感じ”と関連するのですが、蓮沼さんは、音楽や美術作品でもアウトプットの場ではいつでもとても飄々としているように見えます。どちらも自分がやるべき仕事として、職務をまっとうするために淡々と取り組み続けているような。
そんなサイボーグみたいな感じですか?(笑)。でもたしかに“飄々としてる”ってよく言われます。さきほども言いましたが、僕は人がいないと成立しないような作品が多くて、作品単体で何かが起こっているっていうことをあまり信じていない節がある。他者に委ねている部分がものすごくあるからそんなふうに表出しているのかな。
──ちなみにさきほど、時代の状況や問題意識の話があったと思うんですけれど、直近で関心のあることはありますか? 最近の蓮沼さんはどのようなモードでしょうか。
僕はもともと学生時代からガンガン作品を見て聞いてインプットするタイプだったのです。でも、作品を作るときはその真逆で、枯渇するまで、自分がもう乾ききるまで、何も入れない、インプットしません。そうしないと自分の中から強いものが出てこないんじゃないかなって。
現実的な問題として存在する社会問題をトレンドのように作品の中に取り入れてアウトプットするっていうやり方もそろそろ疑っていかないといけないんじゃないかと思っていて、危機的な状況で作品をアウトプットしていくことの責任についても考えます。