岸 由二×今尾恵介 移動用の地図と定住用の流域地図――二刀流で災害から命を守れ
(『中央公論』2023年4月号より抜粋)
岸》最近、今尾さんが刊行された『地図記号のひみつ』(中公新書ラクレ)というご著書を、大変面白く読ませていただきました。私は記号を覚えるのは不得手ですが、要所要所に地図をめぐるさまざまな一般知識が入っているので非常に読みやすい。例えば目次に「等高線は読めますか?」とありますが、このタイトルにドキッとする人は多いんじゃないでしょうか。専門学校で長く教えた経験がありますけど、今の子供たちは等高線が読めない。いくら説明しても、尾根と沢の区別もつかないくらいですから。
今尾》岸先生は「流域」をベースに治水や都市再生に取り組んでおられますけれど、等高線が読めないとなかなか理解できないですよね。私は中学1年生で地図のマニアになったので、そもそも等高線が読めないという感覚がわからないんですが。
岸》最近の子は地べたで遊んで、その凸凹(でこぼこ)を地図と照らし合わせるような体験もないんでしょうね。
今尾》今は自分の現在位置も、スマホですぐにわかる時代ですからね。
岸》地図の用途が変わったんです。今の地図は、主に自分がどこかに行くためのナビゲーションツールになっている。そういう地図には、誰が誰とどこでどう暮らしているかは表現されていません。地図がその土地に定住する人ではなく、移動する人のためのものになっているんです。
私は、近年増えている豪雨などの被害に対応するため、今こそ定住のための地図として流域の地図を導入するべきだと言っているんですが。
今尾》岸先生の『生きのびるための流域思考』(ちくまプリマー新書)というご本を拝読して、そのご提案の大切さがよくわかりました。流域とは、雨水を河川や水系の流れに変換する地形や生態系のことで、例えば豪雨のときに川を氾濫させるのも、川そのものではなく、大地の構造だという。だから、われわれは流域を基準に災害や生活を考える「流域思考」を身につけなければならない、それにはまず地図を見直そう、ということですよね。
人文的な見地からも、流域は重要です。世界的にも昔の国や郡のエリアはかなり流域と一致していましたし、方言もそうでした。ヨーロッパの多くの大河川の源流があるスイスでは、ライン川水系がドイツ語、ローヌ川水系がフランス語、ポー川水系がイタリア語などと言語圏が分かれています。雨水を分ける尾根が高いほど、人の行き来も減るので、文化圏だけでなく、商圏や通婚圏も流域と重なることが少なくありません。
人間にとってこれほど重要なものが、実はよく理解されていない。先生が指摘しておられるこの状況は、私も実感しています。「尾根に囲まれた場所だ」と簡単に説明しようとしても、最初にお話があったように、「ところで尾根って何ですか」と聞かれたりしますから。