「弟」について
まず間違いなく大学時代の初めではあったろうと思う。私は文学に関して高校時代までオクテだったから。金銭的な余裕もなかった私はたぶん、一人暮らしを始めた西武新宿線野方駅前の商店街にある古本屋で一冊の文庫を買ったのだと思う。
今も本棚に並んでいるその新潮文庫は初めから黄ばんでいたはずだ。ただし、それが『死者の奢り・飼育』であったか、『芽むしり仔撃ち』であったかが思い出せない。どちらも同じように古びており、長いあいだ隣りあって並びながら左右のどちらかに『われらの時代』『見るまえに跳べ』などを増やし、やがて講談社文庫に変わって『万延元年のフットボール』や『壊れものとしての人間』『叫び声』とつながっていった。今ではどれも年季の入った古本だ。
さて、もう一度「正確に思い出そう」としてみる。初めて大江作品に触れるにあたって、その頃の私に『芽むしり仔撃ち』のような長編を買う勇気、あるいは作家に対する知識があったろうか。反対に『死者の奢り・飼育』のようなある意味グロテスクな世界観を持つ短編群を、ウブな私は好み得ただろうか。ただし、どちらにしても自分が鮮烈な読書体験をしたことは確実で、そうでなくては文庫を買い足していくはずがないのである。
こうして確かめようのない過去に潜りこんでみると、その二冊こそが客観的に言っても大江文学にとって特別な位置を占めているのを実感する。初期の青い果実のような、苦味の入り混じった短編群『死者の奢り・飼育』は実存主義の世界的潮流を鮮やかに映し出しており、六〇年代の若者たちの内面を先取りしている。そうした時代の流れを大きな寓話に託したのが『芽むしり仔撃ち』であり、弱い者たちの閉鎖状況をこれほど甘やかに切なく描いた文学作品も珍しい。
そして、この二冊の延長線の交わるところに、構造主義と物語と歴史を文学であらわした大作『万延元年のフットボール』があり、事実私もその結実を「遅れてきた青年」として受け取ることになるのだが、もしも自分が『死者の奢り・飼育』から大江作品を追っていたのなら、作品内の二人の「青年」(蜜三郎、鷹四)がもろともに陥る苦境をより苦く味わっただろうし、『芽むしり仔撃ち』から見通していたなら彼ら「兄弟」がことごとく反目する姿により強く心を痛めていただろう。
どちらにしても以降、『芽むしり仔撃ち』にあらわれたけなげでいじらしい「弟」はすっかりいなくなる。まるで『万延元年のフットボール』が「弟殺し」、もしくは『芽むしり仔撃ち』の世界自体を完全に消し去ってしまうためにあるかのように。そして作家は『個人的な体験』によって事実、自らの青年期に別れを告げるかに見える。すると私たちは、『死者の奢り・飼育』から引かれた一本の直線上に作品群を並べていくことになるだろう。
しかし、そうなればあの静謐で美しく残虐な『芽むしり仔撃ち』はどこに位置づけられることになるのか。私が偏愛してきた、冬の村に監禁された子供たちの世界は。大江健三郎が二度と書こうとしなかった少年小説の結晶は。つまり、象徴的に言えば「弟」は。私は大江作品を読む時、どこかで常にこの「書かれない世界」を探し求めてきたようにも思う。