「力への意志」はヒトラーの意志? ハイデガーの真意が後世の哲学者に遺した課題《21世紀の必読哲学書》
混迷を深める21世紀を生きる私たちが、いま出会うべき思考とは、どのようなものでしょうか。
まず「力への意志」という言い回しに注目しよう。これはそれ自体奇妙な表現である。「意志」とは通常、なにかを目指す心の能力ないし要因を指す。これは、そもそも意志がなんらかの「力」だということである。「力への意志」とは、力を目指す力、意志を目指す意志と言い換えることができる。「意志することは自分自身を意志することである」とハイデガーは述べている(以下、第1章「芸術としての力への意志」から引用する)。
このように「力への意志」には、意志の自己言及的な作用が示唆されている。私たちは、なにかを欲しがるという意欲として意志をもつ。したがって「力への意志」という表現で言われているのは、そうした意志の力を自分自身で意欲することであり、ここでは意志する者と意志される対象とが不可分なまま、意志する作用のなかで溶け合っている。これは、意志が自身を超えて自身の主となることであり、ハイデガーによれば「自己命令の決意」なのである。
ハイデガーの言い回しに拘泥しないようにしよう。事柄としてこれはどういうことか。ニーチェは「力への意志」を「原初的な情動形態」であると述べており、これを「情熱」や「感情」といった言葉で説明している点が重要である。ニーチェの用語法はしばしば混乱しているようにみえるが、ハイデガーはこれを整理することで、ニーチェが意志をどのように性格づけているのかを明らかにしている。
第一に特筆すべきは「情動(Affekt)」と「情熱(Leidenschaft)」との区別だろう。ハイデガーはこれを「怒り」と「憎しみ」の例で説明している。「怒り」は我を失って激高することがあるように、突発的で侵襲的な感情の働きに特徴がある。いわば、一種の制御不可能な「全存在の発作」とみなされる。
他方「憎しみ」は、突発的に顕在化することもあるにせよ、以前から心のうちのなかで醸成されていたからこそ生じる感情である。ハイデガーによれば「憤激した人は思慮を失うが、憎しみを抱く人は思慮と計画をめぐらし、ついには「煮詰めた」悪意にいたる。憎しみは盲目ではなく慧眼である一方、怒りはただ盲目である」。つまり、怒りは情動として突発的であるのに対して、憎しみは情熱として持続的で自覚的であり、冷静沈着ですらあるだろう。