小中高生の北方領土視察、本格再開へ
事業は独立行政法人「北方領土問題対策協会(北対協)」が支援、全国に設置された都道府県民会議が主催する形で、10年ほど前に開始。小中高校生らが北方領土の船上視察や、元島民の「語り部」による講話を聞くなどし、領土問題への理解を深めてきた。
北対協の担当者によると、例年約20都道府県が事業を行っていたが、新型コロナ感染拡大後の令和2年は1県、3年は4県と激減していた。新型コロナの感染症法上の位置づけが5類に移行したことなどに伴い、今年度は21都府県が実施を予定。来月1日からは、東京都の小中学生約20人が北方領土に近い北海道羅臼町などを訪問する。
担当者は「北方領土を知っていても、何が問題なのかよく分かっていない子供たちも多い。ロシアがウクライナ侵攻をしている今だからこそ、関心を高めてもらう機会になる」と話している。
◆旧ソ連侵攻体験「語り部」半世紀
「一日でも早く、もう一度、色丹(しこたん)島の土を踏みたい」。「語り部」として50年以上にわたって自身の体験を語り続けてきた元色丹島民の得能(とくのう)宏さん(89)はそう話す。
色丹島で生まれ育った得能さんが11歳だった昭和20年9月1日、島に旧ソ連兵が上陸。陸軍中尉だった得能さんの父は、樺太の北部へ連行された。旧ソ連兵を恐れて島を離れる人も多かったが、得能さんの家族は島に残った。待っていたのは過酷な生活だった。
日本人の住んでいた家は、旧ソ連兵やその家族によって奪われた。「暴力的に問答無用で家を追われて、日本人は物置小屋や倉庫に移って住むことになった」と振り返る。
22年秋ごろ、旧ソ連側から「島に残っている日本人は、全員日本に帰す」と告げられた。貨物船に乗せられて収容所がある樺太の真岡へ行き、函館に向かう引き揚げ船に乗れる日を待った。収容所での生活は約2カ月に及んだ。
島を出る際に持っていくことが許されたのはリュックサック1つ分の荷物のみ。「雪が降っていて寒くて、食べることもままならなかった。死ぬのが早いのか、引き揚げ船に乗れるのが早いか、毎日、戦々恐々としていた」
過酷な環境で失われた命も多かった。当時2歳だった得能さんのめいは、樺太から函館に向かう引き揚げ船の中で亡くなった。「姉は娘が亡くなったと知れたら海に流されるかもしれないと思い、身内にも言わなかった。後から、樺太から函館へ向かう船の中だけでも50人以上が亡くなったと聞かされた」
◆墓を守るロシア人
こうした辛い経験をした得能さんは50年ほど前、自身の子供が通う小学校でPTA会長を務めたことがきっかけとなり、語り部としての活動を始めた。これまで全国各地で講演し、今年度も、視察事業で北海道を訪れる子供たちに自身の経験を伝えている。
平成4年に始まった「ビザなし交流」では、第1陣として故郷を訪問。引き揚げ前に亡くなった祖父の墓は今も島にあり、墓参なども含めてこれまでに45回以上、島を訪問してきた。
現在、島に暮らしているロシア人との交流の中で、「息子」と思えるロシア人男性とも出会った。新型コロナウイルス禍やロシアによるウクライナ侵攻の影響で、ビザなし交流や元島民による墓参が途絶える中、この男性は得能さんの祖父が眠る墓の掃除などを続けてくれているという。
◆故郷はエネルギー
得能さんは北方領土について「日本の領土であることに間違いない。日本に返還してもらうべきだということは曲げない」と断言しながらも「故郷は人間にとって生きる上での大きなエネルギーで、住んでいる人たちに罪はない。追い出すことは違う」と語る。
「日本に返還された暁には、日本人とロシア人が、一緒に作り上げた、世界に誇れる島にすることがきっとできると思う」。得能さんはそんな願いを胸に、再び島の土を踏める日を待っている。(長橋和之)