久しぶりに本が読みたくなる書評 『明治維新の研究』(津田左右吉著・毎日ワンズ )
英米流の自由主義者にして反共主義者の吉田は、単独講和を目指していた。それは主義主張の問題だけでなく、ソビエトを含めた全面講和は、米ソ冷戦の激しい対立に巻き込まれ、相当時間がかかると予想された。いつまでも首相の座にいられるわけではない。吉田はなんとしても自らの手で講和条約を締結したいと願っていた。
そこへ手ごわい論敵が現れた。当時まだ残存していた貴族院の南原繁議員である。吉田と南原の間で激しい論争が繰り広げられた。そして業を煮やした吉田首相は、南原を「曲学阿世の徒」と激しく罵ったのである。曲学阿世(きょくがくあせい)とは「学を曲げて世に阿(おもね)る」、つまり「学問の真理を捻じ曲げて世の中に媚びへつらう」という意味である。その言葉は当時の新聞に、驚きをもって大きく掲載された。
南原繁は、ただの貴族院議員ではない。当時の東京帝国大学の総長でもあったのだ。東大総長に「曲学阿世の徒」と言い放つ吉田。「ワンマン宰相」というニックネームにふさわしい自信家ぶりである。だが、これは吉田の完全な見込み違いだった。現実を見据える政治家・吉田茂は、理想を追い求める政治学者・南原繁に我慢がならなかったのだろうが、南原は現実を知らない「おとぎ話の世界」に生きる学者ではない。例えば、貴族院の本会議で今の日本国憲法草案の第9条(戦争放棄)について、南原は「国家としての自衛権と、それに必要な最小限度の兵備を考えるのは当然のこと」「それ(最低限の防衛力も放棄)ならば既に国家としての自由と独立を自ら放棄したものと選ぶ所はない」などと、吉田首相への質疑応答の中で発言しているのである。
当時は終戦から間もないこともあって、国民の間で平和希求の意識は非常に高かった。その雰囲気の中での南原の再軍備容認発言である。世に阿(おもね)たりなどしていない。しかも吉田と同様、社会主義にも否定的だ。ただキリスト教に帰依しているため、ソビエトをも含めた国際平和を願う気持ちは強かったのだろう。「現世を忘れぬ久遠の理想」という言葉がよく似合う人だ。
このように、南原は決して「曲学阿世の徒」ではないが、実は戦前戦中にかけてその言葉以外に表現のしようがない人物が実際にいたのである。蓑田胸喜(むねき)だ。蓑田は南原繁より5歳ほど若いが、まずは同じ世代といっていいだろう。東大の文学部と法学部で学び、慶応の予科や国士舘専門学校で教授を務めた人だ。一応、論理学などを教えていたようだが、その著作一覧を見る限り、文句なしの国粋主義者にして反共主義者である。
戦前に多くの大学教授が「国体に反する」という理由で弾圧を受けたことは多くの人が知っているだろう。一方で、蓑田胸喜の名を知っている人はほとんどいないと思う。だが、この蓑田こそ戦前の自由主義的研究を指弾し、多くの優れた大学教授の思想弾圧を行った張本人なのである。天皇機関説の美濃部達吉や滝川事件の滝川幸辰などは有名だが、ほかにも大内兵衛、末広厳太郎らが、蓑田の論文による指弾をきっかけとして、弾圧を受けた。
早稲田大学の津田左右吉教授もその一人である。津田は、歴史書の深い読み込みや文献比較による実証的な研究で知られた歴史家だった。だがその著作の中で、要約すれば「古事記・日本書紀は編纂時の権力者の都合によって改竄された箇所があり、特に古代の天皇は架空のものが多い。歴史資料として十全にその内容を信じることはできない」という内容が蓑田によって「不敬罪」に当たると指弾されたのだった。その結果、一連の津田の著作は発禁処分となり、さらには大学教授の職を辞任し、その上「皇室を冒涜した」として出版法違反で起訴され有罪判決を受けたのである。
不敬罪とされた著作は大正時代に書かれたもので、日本史学会では「津田史観」として広く受け入れられているものだった。なぜその時分になってと不思議に思うが、日本のファシズムが完成し言論弾圧が当然のように行われるようになったということなのだろう。いずれにしても、蓑田が皇国史観全盛の潮流に乗って学問の自由を弾圧した「曲学阿世の徒」であったことに間違いはない。
そして終戦。敗戦から半年後、蓑田は疎開先の熊本の自宅で自死を遂げる。敗戦によって自らが理想とする国家の完成が潰えたためか、あるいは戦前戦中の自らの行いを恥じてのことかは分からない。その3年後、津田左右吉は、谷崎潤一郎、志賀直哉らとともに文化勲章を受章する。津田と津田史観はそれを弾圧した戦前の政権から一変、戦後の新政権によって「優れた学問的業績」として認められたのである。天皇親授の文化勲章を津田はとても喜んだという。その研究内容からは想像しにくいが、津田は天皇を敬愛すること人後に落ちない人だったのである。そう、学問と私事の棲み分けを厳格に行った学者だったのだ。