僧侶の読経中なのに…「神戸ジャズ界の父」が見せたちゃめっ気 生来の明るさ、震災でも失われず
ポク、ポク、ポク、ポク…。木魚を打ちながら僧侶が読経する。背後に座る世界的ピアニスト小曽根真(62)がそのリズムに調子を合わせ、そっとスイングを始める。だが、そこは厳かな法要の席だ。サックス奏者の弟・啓(59)=神戸市=が兄をいさめようと、目配せしたピアニストでオルガン奏者の父・実(1934~2018)も、ノリノリでベースを弾くまねをしていた。
ジャズ一家の性(さが)なのだろう。「どうしようもない」と啓が苦笑しながら約30年前の出来事を回想する。ちゃめっ気たっぷり、人を楽しませることが大好き、サービス精神旺盛。実はそういう人だった。
「人を愛し、愛された。ミュージシャンから、そして何よりお客さんから」。1995年の阪神・淡路大震災の後、実が演奏を続けた老舗ライブハウス「サテンドール神戸」(2016年閉店)の3代目店主渡辺つとむ(54)=神戸市中央区=がしのぶ。
実はいつも客のリクエストに暗譜で応じた。スタンダードが中心だが、難易度が高く他のピアニストが手を出さないような曲もさらりと弾いた。メロディーラインの美しい優雅なバラードの演奏は格別だった。
練習している姿を人に見せなかった。約20年間コンサートで音響を担当した、浅原勇治(57)=明石市=は「新しい曲を常に追いかけていた。真さんが『これ、ええで』って米国から持って帰ってきた曲を家で一人練習し、本番ではいとも簡単に演奏する。陰の努力家だった」と明かす。
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震災で、実が神戸・北野で経営していたジャズクラブ「m.m.join(エム・エム・ジョイン)」は全壊した。米国のジャズピアニスト、テディ・ウイルソンが来店した際にグランドピアノに残した直筆サインが自慢だった。それもビルごと解体された。
「一番の心残りだったと思う」。実の弟子で、「オゾネミュージックスクール」(神戸市中央区)ピアノ講師の吉川純子(65)=三重県=が目を伏せる。震災後も毎年1月は気分が優れない様子だったという。だが、生来の明るさ、ポジティブさは失うことはなかった。
「神戸のジャズは健在なり」を合言葉に、95年に関西など約20カ所でチャリティーコンサートを開いた。ギャラは受け取らず、収益を神戸市に贈った。
後進の育成にも力を注いだ。98年から、若手アマチュアの発表の場として「モザイクジャズフェスティバル」をプロデュースした。オゾネミュージックスクールでは生涯講師を続けた。
2003年には地元のライブハウスなどでつくる「神戸ジャズCITY委員会」を設立。委員長として、生演奏を身近に感じられるイベント「神戸ジャズウオーク」などをけん引した。
事務局長を務めた渡辺は「震災10年目の頃、神戸の街が不景気で暗い空気だった。実さんは『神戸をなんとかせなあかん』と強く思っていた。地元から湧き上がるようなイベントを目指した」と振り返る。
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17年12月25日。実は校歌を作曲した神戸市北区の小部東小学校を約40年ぶりに訪れた。啓が親孝行しようと「何かしてほしいことはないか」と聞いたところ、「昔作った校歌をもう一度聴きたい」と答えたからだ。
全校児童が実の前で校歌を歌った。「みんな、ありがとう」と礼を言った実がサプライズで「赤鼻のトナカイ」などをピアノで弾くと、子どもたちが一人また一人と歌い出し、割れんばかりの大合唱になった。啓はその光景が忘れられない。
「なんのために音楽をやるのか、おやじから最後に教えてもらった気がする」。その2カ月後に実は旅立った。
「シンプルな音楽も前衛的な音楽も結局はそれを楽しまないと」。真はそう力を込める。「難しい音楽」と思われがちなジャズだが、実と親交のあった人たちは口をそろえる。「神戸ジャズは楽しい!」=敬称略=
(藤森恵一郎)