『ストーリーが世界を滅ぼす』我々が物語を所有しているのか? 物語が我々を所有しているのか?
一方で、世界はどんどん悪くなっている。政治の分極化、止まらない環境破壊、野放しのデマゴーグ、混迷きわめるウクライナ情勢、終わりの見えないコロナ禍。
一体どちらが、本当の姿なのだろうか?
答えはストーリーを操る、語り手次第である。私たちが一生の間にたえまなく行うコミュニケーションには、何よりも重要な主目的がある。それが他人の心に影響を与え、なびかせるということだ。そのための唯一にして最強の武器が物語なのである。
むろん物語を通じて、人々を幸せな方向になびかせることだって可能ではある。しかし人間にはネガティブ・バイアスというものがあるからタチが悪い。悲しいかな私たちは、ネガティブな出来事の方に関心を寄せやすく、記憶にも保存されやすい。そしてより力強く、モチベーションを刺激されてしまうのだ。
本書はこのようなストーリーの特徴を伝えるべく、内容のみならず、話法にもとことんこだわった一冊だ。なにしろタイトルからして『ストーリーが世界を滅ぼす』。私たちを時には一つにまとめあげ、時には反目させるストーリー。その負の側面を、執拗なほどのネガティブ・アプローチで描いている。
それにしても著者はなぜ今、ストーリーに警鐘を鳴らすのか? それはソーシャルメディアを始めとする巨大プラットフォームが無数のストーリーの流通装置としての役割を果たし、ストーリー・ビッグバンといった様相を呈していることが背景にある。そしてストーリーに接する人は、正しいかどうかよりも、ストーリーとして良く出来ているかを重視してしまう傾向にあるのだ。
本書が扱うのは、語り手の意志に基づく「加工されたストーリー」だ。物語は私たちに感情を抱かせるものであり、そして感情は人間の意思決定の主要な要素である。にもかかわらず、あらゆるストーリーは、非常にステレオタイプ化された構造に従っており、普遍的な法則があるというのだ。
この法則には少なくとも2つの主要な構成要素がある。第一に、世界のどこでも物語は困った問題を解決しようとする登場人物を扱っている。物語のテーマはトラブルだ。第二に、当たり前に思えるかもしれないが、物語はその奥に道徳的要素を含んでいることが多い。
人間が語る平均的な物語をあえて要約するなら、事態が悪化の一途をたどった末、最後の瞬間に好転するといった感じになるだろう。しかし私たちを良い気分にさせるためには、ストーリーテラーは不幸の描写にかなりの手間暇をかけなければならない。そして物語の世界で事態が好転したとたん、受け手はさっさと物語を離れてしまうのだ。
これらの要素が、古えより集団内の絆の構築を育んできた一方で、集団間の分断も加速してきた。物語は私たちに問題だらけの世界を示し、問題を起こす悪者を明確にし、彼らを攻撃するようにけしかける傾向がある。つまり、物語が増えれば悪者が増え、悪者が増えれば集団間の分断が増えるというカラクリだ。
この法則に則った数多くの事例を眺めていくと、はたしてヒトが物語を所有しているのか、それとも物語がヒトを所有しているのか? 人間の主体性というものへの確信も揺らいでくる。
著者はこのような物語の特性に対抗できるものとして、科学へのコミットメントを挙げる。科学こそが、私たちが見たいものではなく、目の前にある現実を強制的に見せる一つのツールであり、科学を始めとする実証主義こそが、ストーリーによって世界が滅びないためのカギであると説く。
いずれにせよ、私たちは自分たちを分断する世界の中で生きていかなければならない。そのためには、虚構の力というものに常に自覚的であるべきだし、ファクトが人間のバイアスにいかに歪められるかということにも注視する必要がある。
そういった意味で、本書は『サピエンス全史』を読んで虚構の力に興味を覚えた人、そして『ファクトフルネス』を読んでファクトがいかに人間のバイアスによって歪められるかということに注目された人にとっても、うってつけの一冊となることだろう。