森鷗外:領域を横断する巨大な知性 医学者、官僚でもあった近代文学の先駆者
森鷗外は軍医として最高の地位に上り詰める一方で、小説、詩歌、戯曲、翻訳、評論などジャンルを超えて日本文学の可能性を切り開いていった。2022年7月9日に没後100年を迎えた明治・大正の文豪の生涯と、その作品の魅力を紹介する。
『舞姫(まいひめ)』『山椒大夫(さんしょうだゆう)』『高瀬舟(たかせぶね)』などの作品で知られる明治・大正の文豪、森鷗外。2022年は鷗外の没後100年にあたる。文学者であると同時に医学者、軍医、官僚でもあった鷗外はどのような生涯を送ったのだろうか。
1862(文久2)年、森鷗外、本名・森林太郎(もり・りんたろう)は、津和野(現・島根県津和野町)藩の典医の家に生まれた。鷗外も医者になることを期待され、早くから英才教育を受けた。まず儒学。満5歳から師に就き、7歳で藩校・養老館(ようろうかん)に入学して四書五経を学んだ。さらに洋学。蘭医学を修めた父・静男(しずお)から最初の手ほどきを受け、オランダ語の学習を始めた。
1872(明治5)年、鷗外は10歳で父とともに上京する。続いて家族全員が津和野から東京に移住。医者の学ぶ洋学の主流がオランダ医学からドイツ医学に替わっていたため、鷗外は私立学校でドイツ語を学び、11歳で第一大学区医学校に入学した。同校は翌年に東京医学校と改称、1877年に東京大学医学部となる。東大での医学教育はドイツ人教授によってドイツ語で行われたが、鷗外は同時に大学の外で漢学者に師事して漢詩文を学び、中国古典医書を読み、さらに国学者に就いて和歌を学んだ。このように少年期から青年期の鷗外は和・漢・洋にわたる学問を修め、複数の言語を習得したのである。
1881(明治14)年、大学卒業を前にした鷗外は留学を熱望していた。だが、火事で講義ノートを焼失するなど不運が重なり、卒業試験の成績が振るわず、文部省(現・文部科学省)派遣の国費留学生試験に選ばれることができなかった。進路に悩んだ末、鷗外は陸軍の軍医となり、陸軍から派遣されて留学する道を選ぶ。19歳で軍医となり、1884年、22歳で念願かなってドイツに留学することになった。
4年間の留学中、鷗外は本務である衛生学研究、衛生制度調査の傍ら、ドイツ語の文学書や哲学書を精力的に読み、劇場や美術館に通ってヨーロッパの芸術・文化を貪欲に吸収していく。1888年に大量の洋書を携えて日本に帰国した後も、ドイツから継続的に新刊書や新聞・雑誌を取り寄せ、欧州文化の最新動向を注視し続ける。留学を通して鷗外は、日本とヨーロッパの双方に軸足を据え、双方を相対化して見ることのできる「二本足の学者」(鷗外『鼎軒(ていけん)先生』)の視座を身に付けた。このことが後の創作や社会活動において大いに生かされることになる。
帰国後、鷗外は軍医として勤務しつつ文壇デビューを果たす。訳詩集『於母影(おもかげ)』(共訳、1889年)、小説『舞姫』(1890年)をはじめとして創作や翻訳を次々と発表。また、1889年に自ら創刊した雑誌『しがらみ草紙(ぞうし)』で評論に筆をふるい、ドイツ文学・美学の知識を武器に数々の文学論争を戦った。こうした戦闘的な啓蒙(けいもう)活動を通して、鷗外は黎明(れいめい)期の日本近代文学を牽引(けんいん)していく。
鷗外の翻訳も日本の文学界に新しい風を吹き込んだ。中でもゲーテの詩「ミニヨンの歌」(『於母影』収)、アンデルセン『即興(そっきょう)詩人』、ゲーテ『ファウスト』などの日本語訳が後続の詩人や作家に大きな影響を与えた。
初期の代表作『舞姫』は、ドイツに派遣された日本のエリート官僚、太田豊太郎(おおた・とよたろう)が主人公である。ベルリンでの生活を通じて自由な個人という意識に目覚めた豊太郎は、貧しい踊り子エリスと恋に落ちる。だが、エリスとの愛の生活と、帰国して立身出世する未来とが両立しない状況に追い込まれ、苦悩したあげく、妊娠したエリスを捨てて帰国する。異文化の遭遇と葛藤を描いたこの小説は、漢文訓読体に雅文体と欧文翻訳体を融合させた、和・漢・洋のハイブリッド文体で書かれている。
鷗外はまた、帰国の翌年に雑誌『衛生新誌』『医事新論』を創刊し、日本に近代医学発展の土壌を作るべく、医学の領域でも戦闘的な啓蒙活動を展開していく。1897年には小池正直(こいけ・まさなお)と共著で『衛生新篇(しんぺん)』を刊行した。これは日本人によって書かれた最初の衛生学の教科書である。