「メディア芸術」の25年とは何だったのか。「文化庁メディア芸術祭25周年企画展」が天王洲で開幕
HALL / E HALLで開幕した。会期は2月14日まで。
本展は文化庁メディア芸術祭の歴代受賞作品のなかから、社会やテクノロジーの変化、メディア芸術の表現の多様性を感じられる50作品を展示し、その25年の歩みを振り返るもの。
まずはアート部門のおもな展示を紹介したい。昨年「大地の芸術祭」において出展作品が来場者により破損され、再制作されたことでも話題を集めたクワクボリョウタ。第14回アート部門で優秀賞を受賞したクワクボの《10番目の感傷(点・線・面)》(2010)は、光源を備えた鉄道模型が床に並べられた日用品のあいだを走り、その影がまるで模型の車窓のように壁に映し出される作品だ。会場には実際に模型が走り、次々と移り変わっていく影を観客が見守る空間が出現した。作品を体感することでしか得られない「感傷」を、会場で味わいたい。
ブラウン管テレビを楽器のように叩いて音声を出力し、ライブパフォーマンスを行うことで知られる和田永は、第13回アート部門で優秀賞を受賞している。会場には受賞作《Braun
Tube Jazz
Band》(2009)がセットされており、鑑賞者は展示されたブラウン管を触って音を出す体験ができる。本来は画像を出力するための機構であるブラウン管に音を奏でるという機能を与えることで、既存のメディアやシステムを解釈し拡張することの可能性を広く問いかけている。
長谷川愛の《(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合》(2015)は第19回アート部門の優秀賞受賞作品だ。実在する同性カップルの一部の遺伝情報から子どもの遺伝データを生成し、それをもとに「家族写真」を制作した。本作が投げかけた遺伝子操作で人間をデザインすることへの希望や倫理についてのメッセージは、現代においてより強く響く。
第20回アート部門優秀賞に輝いた《Alter》(2016)。ロボットの持つ「生命らしさ」を外見だけではなく、運動の複雑さの実装によって表現した。周期的な信号生成やニューラルネットワーク、いくつものセンサーによって身体を制御する本作。なめらかながらも、ときに複雑な様相を見せるその動きは、生物らしさを過剰に模倣しているともいえ、その過剰さが逆説的に人間とは何かを考えさせる。
第24回のアート部門大賞を受賞した小泉明郎《縛られたプロメテウス》(2019)。ギリシャ悲劇『縛られたプロメテウス』を出発点に、文明社会においてさまざまに変奏されてきたテクノロジーと人間社会との緊張関係を、VR/AR技術を駆使した体験型演劇作品として展開したことが評価された。
石川将也/杉原寛/中路景暁/キャンベル・アルジェンジオ/武井祥平による《四角が行く》(2021)は、最後となった第25回のアート部門優秀賞に輝いた作品だ。物理的な3つの関門に合わせて動く3つの四角と、CGアニメーション上でしか見えない関門に合わせ動くひとつの四角という2つの機構を組み合わされたインスタレーション。概念的な動きによって、鑑賞者に四角の動きが従っているルールの存在を気づかせ、それに従うことの健気さや怖さ、そしてルールを突破する方法が必ずしもひとつではないことを示唆している。
アートのほかにも、アニメーションやマンガ、エンターテイメントの各部門では、誰もが知る有名作品から、歴史的に重要な意味をもつ知る人ぞ知る作品が並ぶ。
アニメーション分野では、現在は日本の劇場用アニメを牽引する存在となった新海誠が、コンピューターを駆使してそのほとんどをひとりでつくったことで大きな話題を集めた初期作『ほしのこえ』(2002)のほか、今敏『千年女優』(2001)、山村浩二『頭山』(2002)、今敏『千年女優』(2001)、湯浅政明『マインド・ゲーム』(2004)、細田守『時をかける少女』(2006)、片渕須直『この世界の片隅に』(2016)などを映像や資料で展示。いずれも各監督が広く認知され、国内外での高い評価へとつながるきっかけとなった作品が並ぶ。
エンターテイメント部門では、ゲーム機のようなインターフェースで音を奏でプログラムすることができる「TENORI-ON」や、いまや若年層を中心に交流ツールとして無くてはならない存在となっている「TikTok」、家庭で五体を使って体感するゲームとして大きな話題を集めた「Wii
Sports」などが展示されている。当時を体験した世代には懐かしく、知らない世代には新鮮に映ることだろう。
マンガ部門は井上雄彦、しりあがり寿、白井弓子、伊藤敦志、こうの史代、近藤ようこ、紗久楽さわなど、錚々たるマンガ家の作品が展示されている。
かつて「芸術」として認識されることが少なかったジャンルの作品を、「メディア芸術」として公募し顕彰してきた文化庁メディア芸術祭。各時代の受賞作を現代の目をもって見ると、それぞれが歴史的に重要な意味を持つ作品となったことがよくわかる。
文化庁は本祭の終了後も、新人の発掘やアーカイヴに力を入れる方針を打ち出している。今後の文化政策を考えるためにも、「メディア芸術」という、ときにその定義の曖昧さを批判されながらも確実に多くの作家や作品をすくい上げてきた言葉が成してきた役割を、総括することが求められるはずだ。その重厚な歴史に比してやや簡易的な展示ではあるが、本展がその契機として機能することを願わずにはいられない。