「中銀カプセルタワービル」解体後の行方に英紙が注目する理由
前田達之は、中銀(なかぎん)カプセルタワービルが解体されるのを、通りすがりのサラリーマンや見物客と一緒に見ていた。そのとき彼は人一倍悔しさを感じていた。
このビルは東京を代表する名建築というだけではなかった。前田はここで10年以上も前からときどき生活していたのだ。彼は職場の近くにあったこの都心の物件を見たときから、この住まいを見てみたいと願っていた。
この建物を設計した建築家の黒川紀章は、カプセルを25年ごとに外して交換するつもりだった。寿命がそれくらいになると想定していたのだ。しかし、設計上の欠陥により、1つのカプセルだけを取り出すのはほとんど不可能だった。
2021年、建設から半世紀を迎えようとしていたビルは老朽化し、所有者間の意見が合わなくなった。元は白かったカプセルは変色し、剥がれた錆のかけらが道路に落ちないように周囲に網が貼られた。また、建物内には大量のアスベストが使用されていた上、その耐震性は不充分で、現在の厳しい基準に合わなくなっていたのだ。
そして、管理会社とカプセルの所有者らは敷地の売却に合意した。2022年4月から建物の解体作業が始まり、アスベストの除去や、カプセルの内装の取り外し、建物の取り壊しが行われた。
15棟のカプセルを所有していた前田は言う。
「オフィスが近いので、解体が始まったときに近くに来て写真を撮りました。すべてのカプセルは救えませんでしたが、少なくとも一部は残そうと決めました」
55歳の彼は、13階建てのビルをそのまま残すことはできないと以前に悟った。そのため、タワーの建築的な価値を残すための計画を立て始めたのだ。所有していたカプセルの一部を貸し出し、ガイドツアーを行って資金を調達した。
1972年に建てられた中銀ビルは、銀座の一角にひっそりと立っていた。140個の同じコンクリートの箱が非対称に積み重ねられた不思議な建築物だった。そこはアーティストやデザイナー、あるいは郊外への長時間の通勤をしたくない一般の入居者たちのコミュニティーとなっていた。
カプセルを外から見ると、まるで巨大な洗濯機のように見える。円形の窓が1つあり、それには街の明かりを遮るためにブラインドがついている。10平方メートルの空間にはユニットバス、ソニーのトリニトロンテレビ、オープンリール式のテーププレーヤー、回転ダイヤル式の電話がが備え付けられていた。
このタワーは、1950年代後半に日本で起こった前衛的な建築運動である「メタボリズム(新陳代謝)」の初期の例だ。そこでは建物は生き物のように捉えられ、時間の経過に合わせて変化し、一部が除去されることもあると考えられていた。
当時の日本は戦後の経済や文化の変革期にあった。黒川とメタボリズム運動の仲間たちは、その急激な変化に対応する必要があると考えていたのだ。