諏訪敦がとらえる眼窩裏の「美」。その眼が問い続ける絵画のあり方とは
本展では、諏訪による丹念な取材と重層的な思索から描かれた作品群を「棄民」「静物について」「わたしたちはふたたびであう」の3つの章立てで構成。会場に並ぶ作品群は、「視ること、そして現すこと」を問い続け、絵画制作における認識の意味を拡張しようとするものだ。
「第1章 棄民」では、通常依頼された絵を多く描く諏訪が、脳腫瘍で倒れその後逝去した父を自発的に描いた《father》(1996)を展示。また、章タイトルにもなっている「棄民」シリーズにも注目したい。諏訪は、父の残した手記を手がかりに家族の歴史が眠る旧満州に赴いた。家族のたどった歴史を追随するように描いたのが本シリーズだ。国策のなかで犠牲となった家族を描いた作品群からは、諏訪が親族を看取るような姿勢を窺うことができる。
諏訪はコロナ禍のなか、デザイナー・猿山修と森岡書店・森岡督行の3人で「藝術探検隊(仮)」というユニットを結成。『芸術新潮』(2020年6月~8月号)誌上で静物画をテーマにした集中連載に取り組んでいた。「第2章 静物について」では、写実絵画の歴史を俯瞰した考察を含む数々の作品が展示。諏訪の圧倒的なまでの緻密な描写に加えて、写実表現を追求、拡張を試みてきた諏訪ならではの、近代日本絵画に対する皮肉のこもったメッセージが印象的である。
また、展覧会タイトルにもなっている作品《眼窩裏の火事》は、諏訪が長年悩まされ続けてきた閃輝暗点(せんきあんてん)の症状を絵画の一部として取り込み描いたもの。実際にそこには存在しない光ではあるが諏訪自身の見えている像を、諏訪の絵画というメディアを通じて我々は認識することができる。
「第3章 わたしたちはふたたびであう」では、綿密な取材から対象の表層だけでなく歩んだ人生や歴史をまで描き出す、諏訪の制作スタイルに触れることができる。情報が刷新されるたびに描き重ねるといったそのプロセスは、キャンバス上に時間をも積層させていくようである。
この制作スタイルは舞踏家・大野一雄を描いた諏訪の最初期の頃から一貫されてきたものであり、そのプロセスは、歴史的な出来事やいまは亡き人の肖像を描くといった、「不可視を描き出すこと」を意図したものでもある。諏訪はこれらの経験から「描き続ける限り、その人が立ち去ることはない」という感覚を確信したという。この確信が、本章における大きなテーマにもなっている。
本展の開幕にあたって、諏訪はこう語っている。「人から距離を取るタイプである自分が絵画制作を通じて人と関われたのは、画家家業を続けてきたから。アートの良いところは誰も答えを出せないことに対して、そのままを提示できるところだ」(一部抜粋)。
昨今AIが様々な写実絵画を生み出している実情があるなか、本展で諏訪が一枚の絵画制作に対して行う丹念で重層的なリサーチとその絵画制作を目の当たりにした。そこでは、人が「絵を描く」ということに対する真の意味を感じられるようであった。諏訪が描いた「目の前には存在しない誰か」。それらが歩んだ人生や重ねた歴史、ひとつひとつの思いは、確実にキャンバスの前には存在しているのだ。