『黄色い家』川上未映子著 評者:亀山郁夫【新刊この一冊】
人は何のために生きるのか。生きる欲望を駆動する金の正体とは何なのか。絶大な力をもつ、変幻自在の「神」に翻弄されて生きる子の世代を描いたこの物語は、ある意味で、階級闘争の物語であり、同時に世代間対話の物語でもある。しかし、川上が最終的に辿り着いた発見とは、一人の人間の原罪意識が、他者の不幸の導きともなるという存在論的な認識だった。この小説を読みながら、私はたびたび「不条理的根源」という言葉を思い浮かべていたが、今もってその理由が解けずにいる。
時代は、21世紀の幕開けを告げる「千年紀」のとば口。すでに40代に入った主人公の伊藤花が、20年前に起こった謎の事件を、一人称独白によって回想していく。ある日突然、同じ家に住みついた母の知人黄美子に花は奇妙な愛着を抱く。その愛着が極まったところで黄美子が姿を消し、花は失望に沈む。2年後、町で偶然に再会した2人は、意気投合してスナック「れもん」の経営に乗り出し、蘭、桃子の若い2人を加えて奇妙な共同生活を始める。だが、好事魔多し。彼女らの期待を一身に担ったスナックが焼失し、再建の資金稼ぎのためにカード犯罪の出し子として悪事に手を染めた花は、他の少女たちをも巻き込んで、徐々に蓄財の鬼と変貌していく。大金を手にした花の異常心理と共同生活の崩壊、とりわけ黄色い家が瓦解していくプロセスの描写は鬼気迫るものがある。
端的に、小説のリアリティとは、文体のリアリティであり、そこにプロットがどう有機的に絡まるかで成否が決まる。今回の『黄色い家』は、文体の魅力もさることながら、デモニアックな何かがとりついたかのようなプロットとその提示の手法が読みどころである。鬱屈した少女たち一人ひとりの描き分け(桃子がとても魅力的だ)、場面転換のダイナミックス、人間の心理に限りなく忠実に寄り添う会話文。川上ならではの魅力と言ってしまえばそれまでだが、確実に言えることが一つある。川上の小説が読者の心に残すのは、印象ではなく、経験であり、もっと言えば爪痕そのものということだ。今回の小説では、一人称独白の可能性が限界まで追究され、言語がいかに想像力の深部にくいこむ力をもつか、その範となるべき世界を開示した。
物語は、冒頭からエディプス的な自己遡及のテーマが意識されている。「わたし」は一体何者なのか。まさにアナグノリシス(再認)のテーマである。物語も終わり近く、読者は、この悲劇の根が、花自身の一種の原罪意識にあったことに気づかされる。物語全体を、そんな彼女のすさまじくペシミスティックな運命論が支配するが、希望がないわけではない。フィナーレでの黄美子との再々会が暗示するのは、原罪意識の不幸な環を断ち切るすべは、喪失と自己犠牲にしかない、ということだ。その意味で、黄美子の放つ不思議な存在感は、さながらスフィンクスのように、読者に何度も謎解きを迫り続けるだろう。
(『中央公論』2023年4月号より)
【著者】
◆川上未映子〔かわかみみえこ〕
大阪府生まれ。2008年「乳と卵」で芥川賞、13年、詩集『水瓶』で高見順賞、『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞、19年『夏物語』で毎日出版文化賞を受賞。『夏物語』は40ヵ国以上で翻訳刊行が続く。
【評者】
亀山郁夫〔かめやまいくお〕
1949年栃木県生まれ。ロシア文学者。東京外国語大学名誉教授。