「しない善よりする偽善」な社会を乗り越えるため、ハイデガーが考えたこと《21世紀の必読哲学書》
混迷を深める21世紀を生きる私たちが、いま出会うべき思考とは、どのようなものでしょうか。
《21世紀の必読哲学書》では、SNSでも日々たくさんの書籍を紹介している宮崎裕助氏(専修大学文学部教授)が、古今の書物から毎月1冊を厳選して紹介します。
第4回(1)(全3回)はマルティン・ハイデガー『ニーチェ』(全2巻、細谷貞雄監訳、平凡社ライブラリー)です。
「しない善よりする偽善」というインターネット・スラングがある。相手にどんなに感謝される善行も、見返りを期待してのことだとか自分を良く見せたいだけだとか自己満足にすぎないとか、否定的な反応と表裏一体であり、そこには疑念ややっかみの評価がつきまとう。だからといって何もしないことを善とみなすより、偽善かもしれないとしても行動に移すほうがよい、という言葉だ。
これは、利他主義のジレンマをうまく言い当てている。どんな贈与も陰に陽に見返りを求める行為(つまり非・贈与)として解釈されざるをえないように、どんな善行もその否定を伴ってしまう。どんな行為も善と悪の反転可能性に開かれている。要するに、道徳を他者依存的な価値として理解するかぎり、このジレンマからは逃れられないのだ。
ニーチェが「道徳的価値の転倒」を企てたのは、そうした他者依存的な価値から脱した行為として道徳は実践されなければならないと考えたからだ。道徳的な行為は、相手の反応をうかがうより前に、そうした反省以前に、端的になされなければならない。カントであれば「無条件に」と言ったであろうが、定言命法として認識されることすらなしに、ただただ端的になされなければならないのである。
ニーチェはそうした行動の核心に、私たちの生の自己肯定を見据えていた。生がみずからを肯定する力、これを解放することが新たな道徳の価値となるべきなのだ。これはあくまでも「新たな道徳」である。『道徳の系譜学』の第二論文が人間を「約束する動物」として説明していたように、道徳そのものを破壊することや、社会契約(約束)以前の「野蛮」に退行すること、たとえば野生の自己保存本能や、原始の自己愛的な攻撃衝動へと回帰することをもくろむものではない。