村上海賊「一子相伝の兵法書」も… 新発見資料の巡回展、29日から
村上海賊が活躍した南北朝時代から戦国時代にかけての歴史を伝える資料として注目されるのが今回初公開となる兵法書。個人蔵で、江戸時代初期の能島村上家当主・村上就武(なりたけ)(1612~94年)の判と花押(書き判)が据えられている。ミュージアムの松花菜摘学芸員によると、戦国時代の軍記や、戦術を記した兵法書は江戸期に多く編まれた。村上海賊の兵法については近代になって旧海軍も収集して研究されたが、今回の資料は1670(寛文10)年と、江戸期でも早い時期に記されていることが貴重な発見だという。
「15選」では近年に明らかになった新資料もまとめて目にすることができる。2019年にミュージアムが調査結果を発表した絵図「難波船軍図(なにわふないくさず)」は、1576(天正4)年に村上海賊を含む毛利方の水軍が織田信長側の水軍を打ち破った第一次木津川口合戦を江戸期に描いた。実際には合戦に加わっていない織田方の水軍武将・九鬼嘉隆(くき・よしたか)の名があるなど、史実と合致しない部分もあるものの、江戸時代の人々の合戦への認識がうかがえる。
18年に明らかになったのは、村上海賊がお歳暮にカキを贈ったことへの礼状原本。能島村上家の当主・村上景親(かげちか)(1558~1610年)宛てに大名・毛利輝元(1553~1625年)が差し出した。滋養に富むカキは武田信玄ら戦国武将も好んだとされ、書状には「歳暮の儀として青銅百疋(略)蛎(カキ)一桶到来し、祝着(しゅうちゃく)の至りに候」とあり、「極月廿九日(12月29日)」の日付の下に花押が記されている。花押の形状から1603年以降の輝元の書状とされる。
いずれも近年の新発見で、ほかにも近世・近代の資料から「村上家の歴史はどのように語り継がれてきたのか?」「『村上水軍』と呼ばれたのはいつから?」を改めて探るなど、最新の視点で村上海賊の全体像を追う巡回展となる。
2016年の日本遺産認定を機に、愛媛県今治市と広島県尾道市の関係団体でつくった「村上海賊魅力発信推進協議会」が主催し、同ミュージアム(9月24日まで)▽尾道市の因島水軍城(9月29日~11月8日)、おのみち歴史博物館(11月16日~12月25日)で開く。【松倉展人】