【新刊紹介】植物の “香りの声” を聴く少女が挑む生態系との闘い:上橋菜穂子の新作ファンタジー『香君』
『精霊の守り人』をはじめとする「守り人」シリーズや『鹿の王』など、異世界を舞台に現代社会にも通じる問題を投影した骨太のファンタジーを生み出してきた上橋菜穂子氏。2014年国際アンデルセン賞を受賞するなど、日本を代表する児童文学作家だ。
もっとも「児童文学」「ファンタジー」と呼ぶのはあくまでも便宜上にすぎない。上橋氏は、文化人類学者でもあり、オーストラリアの先住民アボリジニのフィールドワークなどを行った経験がある。そうした背景があるからこそ、架空の古代世界を描きながらも、多文化、異文化コミュニケーション、支配者と被支配者の関係などが現実的な問題として迫ってくる。その世界の社会システムの中で、人々の生業(なりわい)や食べ物などがリアリティーを持って描かれ、庶民から貴族まで、日々の暮らしぶりが立体的に浮かび上がってくることが、大きな魅力だ。
もちろん、複雑な背景を持つ登場人物たちも、強烈な印象を残す。『精霊の守り人』では、父帝から疎まれ、刺客や魔物から命を狙われている皇子を守る孤高の女用心棒バルサを描く。その強さと優しさは、秘めた母性を感じさせながらも、性差を超えたカッコよさなのだ。『鹿の王』では、侵略戦争に敗れて故郷を失い、妻と子も謎の病で亡くした孤独な戦士ヴァンが、偶然保護した身寄りのない幼い少女を守るために命をかける。
『香君』のヒロイン、アイシャは、こうした力強いキャラクターたちと比較すると、やや受け身の印象だ。特異な嗅覚を持ち、芯は強いが、決して超人ではない。むしろ、本作で強烈な“個性”を発揮するのは、“奇跡の稲”と呼ばれる「オアレ稲」だ。帝国は、神話的な由来を持ち、丈夫で育ちやすいこの稲の栽培をコントロールすることで、属国(藩国)を支配している。ところが、害虫がつかないはずのオアレ稲に謎の虫害が発生し、帝国の屋台骨は揺らぐ。多くの藩国が食料危機に見舞われる中で、この稲の持つ恐ろしい性質が明らかになっていく。
コロナ禍前に書かれた『鹿の王』は、謎の病の正体を探る過程を描く医療小説でもあり、人間とウイルス、野生生物との闘い・共生への模索を描いた。『香君』を読むと、生物多様性、農業や食料問題について考えさせられる。作者自身は、決して現代的なメッセージを伝えるためにプロットを構築したりはしないという。だからこそ、押しつけがましさを感じることなく、物語を楽しみながら、移民問題やパンデミック、覇権争いなどに揺れる現代社会への問い掛けを感じ取り、その中でどう生きていくかという示唆を得ることができるのかもしれない。
文:板倉君枝(ニッポンドットコム編集部)