村上隆が仏紙に語る「楽観主義と記憶喪失」、「AI」、「草間彌生」…
──2006年、オークションハウスのクリスティーズは、あなたを世界で6番目に高額なアーティストと格付けしました。いまはどうなっているのでしょうか。
それは知りませんでした。で、いまは誰が一番高額なアーティストなんでしょう? 奈良美智さんかな……。2021年のトップがジェフ・クーンズで、次がデイヴィッド・ホックニーですか。それも知りませんでした。この手の格付けはあまり重要とは思えなくて、注目していないんです。
──成功はジャンプ台でしょうか。それともブレーキだと思われますか? 毒にさえなりうるとも言いますが……。
僕は30歳でニューヨークに渡りました。そこで自分の作品をギャラリーに展示する機会を得たんです。たくさんのチャンスがありました。そういうことがなかったら、ここまで続けてくることも、自分の作品に必要な生産手段を見つけることも、難しかったと思います。
それから、僕の人生を決定づけてきた重要な出来事が3つあります。2008年の経済危機、2011年の震災と津波、2020年の新型コロナウイルスです。2008年の経済危機は9月のある日、突然起こりました。僕にとってはすべてが順調に進んでいた時期でした。成功も、作品の販売も12月までは続きましたが、そこで全部ストップしたんです。そのときの苦労があまりにも大きかったので、コロナ禍でもそこまで心配しなかったほどです。
──東日本大震災のときは、どのように過ごされましたか?
2011年、僕は埼玉にある自分のアトリエにチームのメンバーたちと一緒にいました。東京から車で北に1時間、福島からは南に2時間のところです。地震から1時間後、激しい雨が降りはじめました。チームのメンバーでアーティストのMr. (ミスター) は、ウクライナ製のすごく正確な放射能計測器を持っていたのですが、皆が怖がるほどその値が高かった記憶があります。
それで、そのスタジオを閉めて京都に避難し、新たにスタジオを作りました。それから1ヵ月後に埼玉に戻ったのですが、僕の家族は京都に残りました。その頃は赤ん坊がいたもので。コロナのときも、僕はその大きなスタジオで過ごしました。チームの安全が守られましたし、マスクをつけて作業を続けることができました。
──あなたの作品は花や色とりどりのモチーフで溢れ、とても楽観的なものです。あなたのなかに、重々しさや深刻さといったものはあるのでしょうか。
僕は自分が楽観主義者だと思っています。それが作品からも出ているのでしょう。楽観主義なのは、僕の記憶喪失に由来します。記憶を失うこと自体は問題なのかもしれませんが、結果的にはとてもポジティブなものです。
僕はものごとを忘れます。ずっとそうでした。ふさぎ込んでしまう人というのは、忘れることができないんです。楽観的になることを妨げているのは過去ですから。
女優のケイト・ブランシェットは、トッド・フィールドの映画『TAR/ター』に出演する前、指揮者についてかなり下調べをしたそうです。そして彼女は、彼らの多くが、他の多くのアーティストたちと同様、しばしば自閉スペクトラム症のようなハンディキャップを抱えていることを知りました。
記憶を失うということもまた一つのハンディキャップです。それから僕は足音や声などの音、そして無秩序な状態にも過敏です。地面に落ちているゴミを見ると落ち着かなくなるのです。