読みたくても読めなかった『古事記』は、「読む」というより「体験」すべき作品だと気づいた話
作家・町田康が日本最古の神話「古事記」を現代語訳した『口訳 古事記』が話題を集めています。平安文学をはじめ古典を深く愛する編集者・たらればさんは、本書をどう読んだのでしょうか? これまで「古事記」が読みづらかったのはなぜか、町田「口訳」がするする読める理由…「目からウロコ」の書評をお届けします!
----------
平安古典文学を愛するオタクのひとりとして、『古事記』は「ラスボス」のような存在だと勝手に思っております。日本文学の始祖的な存在であり、仏教や儒教が入ってくる以前の「生」の日本語と日本式物語構造の原点が描かれている作品であり、「いつか体系的に読みとおしたいなあ」と思って幾星霜、何度か手にとって開いてみたものの、そのたびに跳ね返されておりました。
というのも…、『古事記』って読みにくくないですか。登場人物(神様含む)の名前は覚えづらいし(「宇摩志阿斯訶備比古遅神=うましあしかびひこじのかみ」ってなんですか、早口言葉ですか…)、がんばって覚えてもその後まったく出てこなかったり、重要な伏線っぽいキャラだなと思って身構えていたらまったく放置されてたり(「月読命」って実質的なナンバー2だし「夜を統べる」という非常に重要なポジションっぽいのになんでその後まったく出てこないんですかね…)。
個人的に一番しんどかったのは、各エピソードに統一された作者の意図や寓意を読み取るのが難しかったことでした。「善意はいずれ報われる」とか「お年寄りは大切に」とか「正義は人の数だけある」とか「愛情とは呪いの一種である」とか、そういう教訓のような、はっきりしたストーリー性やメッセージを、古事記に感じ取れなかったんですね(そういう意味では三浦佑之先生の「古事記は(日本書紀がヤマト政権という勝者の歴史を記す物語であることに対する)“敗者の物語”である」、「歴史はひとつではない、ということを示す書である」というメタ的な解説(『100分de名著 古事記』より要約)は、非常に得心いたしました)。
「なんでこんなに読みづらいんだ…わたしが無学だからだろうか…いつかもっと古典の素養が身についたら、古事記をすらすら読めて楽しめるようになるのかしら……。いつか…いつかきっと……」と思いつつ、機会があれば入門書を手に取ったりチラ見する日々が続いておりました。
はい、長い前置きになりました。そこで『口訳 古事記』(町田康著)です。今回機会をいただいてページをめくってめくって、「おお……、こ…こういうことだったのか!」と深く納得しました。ありがたし。
特に史料の裏付けがあるわけではない、わたしの感覚的な読後感に基づいた発見を申し上げると、『古事記』は、文字におこされて「文書」になるずっと前から口伝として日本列島に存在していたエピソード群であり、一語一行を組み合わせて「意味」を汲み取る、というよりも、エピソード全体からニュアンスやグルーブ感を受け取る…みたいな方法で楽しむものなのですね。目から頭に入れて理解する、というよりも、お腹のあたりとか胸のあたりで直接受け止めるイメージ。
だからこそ町田さんの「口訳」が、するすると身体に入ってくるのでは。