武田徹 立花隆の原点を探る。長崎で生まれ、北京からの引き揚げ体験はどのような影響を与えたのか
『「戦争」を語る』の中に橘龍子(立花隆の実母)を囲んで長男・弘道、次男・隆志が往時を回顧する鼎談が含まれている(妹の直代も鼎談には参加しているが往時の記憶がないためにほとんど発言していない)。子どもたちも日本が支配する都市での生活を経験している。
弘道 とにかく中国蔑視がひどくてさ、その中国人不信は異常じゃなかったかな。俺は小学校に通っているわけだけれども、ある時、行きは集団で行くんだけれども、帰りは北京市中は子ども一人でも大丈夫だった。だから一人で帰ってきたわけね。すると、中国の迴警っていう巡回警察が、「ガッ」と摑んで引き止めるわけ。俺は子ども心にその時の感情を覚えているんだけれども、「なんだチャンコロが、俺に手なんか!」ってね。振りほどいて抵抗したら、「ウー」っとどこからか鳴りはじめた。当時中国にも、防空訓練があって、ちょうどその日は市民全員が避難しないといけない日だったんです。それで解放されましたが、こちらは謝りもせず、憤然として帰った記憶があるよ。とにかく小学校一年生が「日本人の方が偉いんだ」という意識が根強くあった。......当時うちはまだ進歩的だったキリスト教の家庭で、『婦人之友』の友の会会員で、当時としては普通の日本人よりもリベラルな家庭だったと言えますが、結局、小学校一年生が平気で「チャンコロ」と言ってたんですから、その程度と思います。(*現在では差別的と思われる表現がありますが、当時の歴史的状況を示すものとしてそのまま使っています。)
差別する日本人に対して差別される側の中国人は当然不快感を抱いている。時に反発を経験することもある。
立花 僕は一回、一人であの(四合院の:引用者註)門を出て街に出たことがあるんですよ。それで、町へ出てすぐに出会った中国人の若い青年に「バカヤロー」って云われたんですよ。いきなり向こうから、それでびっくりして家に帰ったっていう記憶があるんです。
弘道 日本人のチビだから向こうは言えるわけだ。成人の日本人にそんなこと言っちゃったら大変なことになるからな。
子どもたちは彼等にしかできないかたちで日中戦争を経験していた。それは無意識の基層となって長じた後の彼等の考え方の影響を及ぼすことになるだろう。北京では直接、空襲を経験することはなかった。四合院の中庭の中央に防空壕が用意されていたが、それは弘道や隆志の格好の遊び場になっていた。だが1945年の夏になると金色や銀色の大きな飛行機が高空を飛んでいるのを兄弟は目撃している。連合軍機が自由に航行できたのは、既に日本の制空権が失われていたからだ。飛行機が投下した「日本負けた」と書いたプロパガンダビラを経雄が渋い顔で見ているのを弘道は目撃している。不思議に思って「父ちゃん何?」と尋ねたが答えがなかったという。