筆者は40代以上のインテリ? 日露戦争下の庶民感覚 残す本を翻刻
和紙綴じの3巻構成で、各巻40~42ページ。縦25・2センチ、横34・3センチ。墨と水彩絵の具で描かれている。同大国史学科の長谷川怜助教が京都市内の古書店で入手し、記述の正確さのチェックや情報ソースの特定を進めていた。
旅順攻略や日本海海戦など、当時の国民は報道でしか知り得ない戦闘の場面ほか、筆者が実際に目撃したと思われる、在郷軍人の出兵を見送る場面なども描かれている。当時の新聞や雑誌の報道を元にしたとみられる記述の多くについて、長谷川助教は原本とみられる発行物を特定した。
筆者名は表紙に「精策」とあるが、本名、住所、年齢、プロフィルなどは不明。筆者は記録した狙いについて「兵士わ(は)銃砲剣刀を手を、我(わ)れは筆を手に」「戦争の紀念(記念)にも成れば幸甚なり」と記していた。
描かれている出来事に対して筆者は意見や感情を残しておらず、事実のみに重点を置いている。「日比谷焼き打ち事件」など、終戦後のポーツマス講和条約調印(05年)に不満を抱いた群衆らによる暴動が各地で相次いだことも書かれているが、ここにも筆者は考えを記していない。
捕虜収容所で、ひそかにロシア兵へ酒やビールを販売する日本人の姿や、在郷軍人出兵の見送り風景などについての詳細な記述も認められる。長谷川助教は「描写が具体的であり、実際に筆者が目撃したことを描いたのではないか」と推測する。
一方、終戦の要因となったロシア革命の発端「血の日曜日事件」(05年)で労働者とコサック兵が戦う様子も描かれているが、当時は現地の状況を把握できなかったためか、コサック兵が当時の日本の巡査のように描かれている。
筆者の人物像について、長谷川助教は「明治の近代教育を受けていないことは文体から明らか。だが、多くの新聞雑誌などを入手できる経済力と知識欲を持ち、戦争を多方面から概観できる視点が備わっている。裕福な家庭で幕末に生まれた40代以上のインテリ男性では」と推理する。
こうした個人作成の史資料の研究意義について、長谷川助教は「死蔵され、散逸することが多く、学術的に軽視される傾向もある。こうした史料が失われることを防ぎ、新たな視点で研究して後生に引き継ぐことが必要だ」と話している。【尾崎稔裕】