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政治小説の師
2023-05-02
政治小説の師

 後藤明生の本で読んだドストエフスキーの言葉、「我々はみなゴーゴリの『外套』から出てきた」を私なりに言い換えれば、「我々はみな、大江健三郎の『セヴンティーン』から出てきた」となるが、「我々」のうちの「々」はおらず、自分の知るかぎり私は独り『セヴンティーン』から出てきたのだった。

 何もかもにも劣等意識を持つ鬱屈した十七歳の少年が、クラスメイトから右翼の演説会でサクラのバイトをしないか、と持ちかけられ、右翼の演説を聞くうちに、《右》である自分というアイデンティティを獲得していく過程が、一人称で執拗にグロテスクなまでに描かれたこの短編小説を読んだのは、私がメキシコ留学から帰国した一九九〇年代前半、大江さんがノーベル賞を受賞したころだった。大学時代に安部公房にのめり込み、そこからガルシア=マルケスに移り、ラテンアメリカ文学に魂をさらわれてメキシコに行き、中南米諸国のうちでメキシコを生きる地に選んだのには大江さんも住んだことのある土地という事実も意識されていたのだが、帰国してからすぐに古本屋に走って、新潮社刊の『大江健三郎全作品』全六巻を購入したのは、仕事もお金もなかったからだ。大学時代にいきなり『同時代ゲーム』から入ろうとして挫折したので、計画に基づいて読書をする大江さんに倣い、最初から書かれた順にすべての作品とエッセイを読もうと考えたのだ。そしてまず最初の深みにはまったのが『セヴンティーン』だったのである。
 「おれ」は、演説を聞いているうちに、次のような変化を覚える。

 「いつも自分を咎めだてし弱点をつき刺し自己嫌悪で泥まみれになり自分のように憎むべき者はいないと考える自分のなかの批評家が突然おれの心にいなくなっていたのだ。おれは傷口をなめずっていたわるように全身傷だらけの自分を甘やかしていた、おれは仔犬だった、そして盲目的に優しい親犬でもあった、おれは仔犬の自分を無条件にゆるしてなめずり、また仔犬のおれに酷いことをする他人どもに無条件で吠えかかり咬みつこうとしていた」

 そして、その瞬間が訪れる。

 「自分の弱い生命をまもるためにあいつらを殺しつくそう、それが正義だ、おれは立ちあがり拍手し喚声をおくった、(中略)酷いことをされ傷つけられた弱い魂のための、それが正義だ! 

 『あいつ、《右》よ、若いくせに。ねえ、職業的なんだわ』

 おれは激しくふりかえり、おれを非難している三人組の女事務員が一瞬動揺するのを見た。そうだ、おれは《右》だ、おれは突然の激しい歓喜におそわれて身震いした。おれは自分の真実にふれたのだ、おれは《右》だ! (中略)おれは他人どもに見つめられながらどぎまぎもせず赤面もしない新しい自分を感じた。いま他人どもは、折りとった青い草の茎のようにじゅくじゅくと自瀆で性器を濡らす哀れなおれ、孤独で惨めなおどおどしたセヴンティーンのおれを見ていない。(中略)大人どもはいま独立した人格の大人同士が見あうようにおれを見ているのだ。おれはいま自分が堅固な鎧のなかに弱くて卑小な自分をつつみこみ永久に他人どもの眼から遮断したのを感じた。《右》の鎧だ!」

 二〇〇〇年代に入って私は、「新しい政治小説」と自ら銘打った小説群を書き継ぎながら、常に『セヴンティーン』を読み返した。政治を左右するのは、必ずしも理性的な理屈ではなく、個々人の日々の生活の積み重ねで溜め込まれたこのような負の破壊感情であることを、文学は見なければならないと感じていたからだ。男の恥辱を描いて人間の普遍性であるかのように見せてきた日本の私小説に対し、大江さんはその恥辱が社会構造の産物でもあり、またその恥の意識が社会の常識を形成し、暴力となって他を抑圧してきたことを、個人の内面の粘着する描写だけで可視化した。

ソース元URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/b8ae791b71b916afce7b4e4f5f1f162ef3cc012e

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