笑顔生き生き 戦前の工女の街 長野県・岡谷蚕糸博物館
蚕(かいこ)の魂をなぐさめる仏塔がある、と聞いたのはいつだったか。私は異様な感じがした。
蚕というのはカイコガという蛾の幼体で、まあ要するに虫である。人間ですら死んで塔が建つことはなかなかないのに、虫を人なみに、いや人なみ以上にあつかうとは一体どういうことなのか。
その名も蚕霊(さんれい)供養塔、長野県岡谷(おかや)市、真言宗照光寺の境内にあるという。行ってみるとその寺はJR岡谷駅から自転車で十分もかからないところにあったけれども、いかにも土地の名刹(めいさつ)という感じで、境内はよく清められ、本堂のたたずまいよろしく、その仏塔も、昭和九年(一九三四)建立というが、知らなければ単なる立派な多宝塔である。
あんまり普通顔(がお)をしすぎていて、たとえば三百年前の偉い和尚が疫病退散を祈って建てたなどと言われたらあっさり信じてしまうだろう。岡谷というのは戦前には日本を代表する製糸業の街で、したがって無数の蚕を煮殺(にころ)して発展したわけで、私は、そのことに対する関係者や市民の感情のありようがこの一基でよくわかるような気がした。誇らしさと後味の悪さ。自慢したいが懺悔(ざんげ)もしたい。つまりはそういう場所なのだ。
私は寺を出ると、その足で、岡谷蚕糸博物館に行くことにした。自転車を止めて館内に入り、展示室に足を踏み入れると、挨拶(あいさつ)代わりとばかり置かれているのがフランス式繰糸(そうし)機だった。
台所のシンクのような台を置き、その向こうに背の高い棚を置いて、木製の鉤(かぎ)をいくつも取り付ける。おそらく現役のときはこのシンクで蚕を煮て繭糸を取り出し、それを何本も撚り合わせて一本にして、棚の鉤でみちびいて巻き取っていたのだろう。明治五年(一八七二)、群馬県に官営富岡製糸場が設立されたとき輸入された三百釜のひとつというから、まさしく助っ人外国人である。
日本の近代製糸史は、この一台から始まったと言うこともできる。もっとも輸入後は、日本の湿度の高い気候に合わせて種々の改造をほどこしたとか。機械はほかにもたくさんあって、おおむね時代順に並んでいるので、私はゆっくり歩きながら見るうちに、それらがしだいに大型化し、複雑化して、短時間でたくさんの生糸が生産できるようになるさまを想像することができた。
現物だけが持つ説得力である。何だかだんだん高度なおもちゃをあたえられるような気分のよさもあったけれど、しかしながら結局のところ、私の場合、いちばん心に残ったのは人間だった。ときどき展示される写真のパネルには当時の操業の様子を示すものが何枚かあったのだが、そのたいていには女子労働者、いわゆる工女が写り込んでいたのだ。
そう、戦前の岡谷は工女の街だった。昭和五年(一九三〇)のこの地の――正確には前身である平野村の――人口は五万三千人、そのうち約半分が村外ないし他県から来たそれだったというから大変なものである。或(あ)る工場では所属する工女が三百十名だった。みんな若いから食べる量もかなりのもので、夏場の昼にそうめんが出たときなど、
「いただきまーす」
と言って全員いっせいに麺をすする、その音はすさまじかったとか。岡谷をささえたのは機械だが、機械をささえたのは人間なのである。
もちろん労働の場であるからして、苦難も理不尽も多かったにちがいないが、特に印象に残ったのは、お祭りを写した一枚だった。どこかの神社の境内だろうか、紅白の幕の手前にたくさんの若い女性が集まって、こっちを向いている。
和服に高下駄(げた)、満面の笑み。たとえば現代の高校のバスケットボール部の集合写真のように生き生きした空気。逆にいえば、おなじ製糸関係でも、あのお寺の供養塔に見たような市民の誇りや後味の悪さはまったくなかった。ただただあっけらかんとした健康美。
虫は虫、人は人、そんな声まで聞こえて来そう。戦前の日本はこの笑顔で保(も)っていたのだと、そんな思いまで私は抱かされた。