フィールド言語学者が世界の屋根で知った言葉の不思議。先生、「誰もが縦になる」って、どういう意味ですか?
『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』『フィールド言語学者、巣ごもる。』の著者で、なくなりそうな言語を研究している吉岡乾さんの新連載「ゲは言語学のゲ」が「群像」2023年8月号から始まります。それに先駆けてご寄稿いただいたエッセイをご紹介します(「群像」2023年2月号「誰もが縦になる」を再編集して転載しました)。
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死ぬなら秋が良い。
夏に死んだら暑さに、冬に死んだら寒さに負けた気がする。春に死ぬのは、日本社会だと、迷惑の及ぶ身内や関係者の、新年度の出端を挫いてしまいそうで、申し訳ない。実際にそういった迷惑を蒙ったことはないが、それでも感じかたは人それぞれだし、悪い可能性は極力回避したい。
だからといって、真冬に急逝した調査協力者を悪く言おうという気は一切ない。
僕は大学院生の時から、カラコラム山脈辺りで、ブルシャスキー語などの言語の調査をしている。もう20年ほど、人生の半分にも及ぼうとしている調査活動の、その最初期から調査に協力をしてきてくれていたイッサという男が居た。大学で日本語も学んだ同年代の彼は、フンザ谷の旧王城で観光ガイドを長年務めていたので、現地を訪れた日本人の多くが記憶しているのではないだろうか。
彼から多く知ったこの言語は、系統的に身内の居ない、孤独な言語である。周辺に数多ある言語とも、全く違った文法、語彙の特徴を有している。それでも、ásulo balími
「それが私の心臓に落ちた」という表現が、『私は理解した』という意味で用いられ、日本語の「腑に落ちる」と似たメタファー(隠喩)の使用が窺えたりもする。似たメタファーが見付かると、それだけでその言語文化に親近感を覚える。畢竟、どんな言語を用いていても、生物としてヒトの脳味噌の構造は同じなので、同じような発想に至るのは何も不思議ではない。『理解した』の意味で「鎖骨が伸びた」などと表現する言語は、考えにくい。一方で、ピンと来ないメタファーというのも各言語にはある。ブルシャスキー語のdáal imánái
(ダール イマナイ)「(彼は)縦/上になった、立ち上がった」という言い回しがどういうメタファー的意味を持つか、解るだろうか。恐らく、答えを知った日本語話者の脳裡には、疑問符がぽこぽこと湧くことだろう。だが日本語も、悪事に「手を染め」つつ今度は悪事から「足を洗う」とか言っちゃって、本当に悪事を絶つ気があるのかと疑いたくなる言い回しをしている。 そして2022年元日、コロナ禍で渡航ができないさなかに、イッサは縦になった。